共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す

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zoom RSS 共に学ぶ この頃の日常風景 ― 分けずに一緒にという意味

<<   作成日時 : 2012/11/23 23:32   >>

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まずは先日のfacebookから。生活ホーム・オエヴィスで毎月第2金曜午前に開かれるTOKOミニおしゃべり会。TOKOとはどの子も地域の学校へ!公立高校へ!東部地区懇談会の略称。常連のほかに時々かけこみ相談があったり、ふらりと来る人あり。
先月は、「障害児」の高校進学を実現する全国交流集会INサイタマ開催に関わったり、TOKO主催と障害児を普通学校へ全国連絡会主催と二度就学相談があり忙しく、おしゃべり会はやれなかった。今日はそれらのふりかえり。

オエヴィスでやることで、小さな子を持つ親たちも成人した障害者たちの暮らしぶりと子どもたちの学校生活をつきあわせて実感できる。

深みにはまり藻にからまってしまう話し合いが、住人の超KYな発言・行動により現実に引き戻される。また今日もそうだが、このところオエヴィスを運営する社会福祉法人つぐみ共生会が教職をめざす学生に必須の介護等体験を受け入れており、その学生たちがTOKOミニおしゃべり会に参加することが多い。

今日参加した学生のうち1人は来春から千葉県の中学校の国語教員となる。地域で共に学び共に暮らしたい親子の思いや生活に出会った体験はきっと何かを残すだろう。


前回のブログで「共に働く」について述べた「差別がないことを意味しない」ということは、筆者が「共に学ぶ」を語るときもそのままあてはまる。
 
 筆者が「共に学ぶ」というのは、よく批判される「障害の受容ができてない」場合も含むし、「健常児の刺激を受けて発達させたい」という親の思い込みも含む。

 また親のエゴとか、周りにひきずられてとか、特別支援教育への偏見とか…とにかくなんであれ、障害児とされながら通常学級に入ること、い続けること、その中でのすったもんだ、あるいは特別な教育の場にいったん入ったけれどもやはり地域で一緒に学び育つ道を探ろうとしているすべての行動を含むのだ。

 以下に紹介するのは月刊わらじ10月号の「TOKOな日々NO.2」に掲載された一人の母親の手記。
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 W!待ってるぞ!       越谷市 M
 
 息子はダウン症13歳 中学1年生です。地域の小学校を卒業し、中学は特別支援学校に進学しました。今では新しい環境にもすっかり慣れて、毎日元気に通っています。

 小学校で一緒に学んできたお友達とは、支援籍交流でたまに会っています。楽しい時間を送ってほしいと思っていましたし、期待していました。本人も、毎回すごく楽しみにしているのですが、久しぶりすぎて緊張してしまい、大人しくしているようです。支援学校から引率している担任も、普段の息子とだいぶ様子が違うので心配しています。

 9月にも支援籍の交流があり、運動祭の練習に参加してきました。運動祭当日も参加させてもらえることになり喜んでいたのですが、運動祭前日になって「中学校の校長先生が『安全面の考慮から席は応援席(生徒席)ではなく本部テントで。競技にも参加はさせられない』と言っている。自分(担任)も行くので、応援席にも一緒に行きますからそれでもいいですか?」と連絡がありました。

 「え〜いやです」とは言いませんでしたが・・・なんとか粘って、席は応援席にしてもらいました。当日は、クラスの応援旗を持って入退場させてもらったり、的当ての競技で的を準備する役を与えてもらったりと色々やらせてもらえました。

 母は前日のやりとりでモヤモヤして寝不足だったのと、暑いのとで ぶっ倒れそうでしたが、久々に同級生のママさんたちと会って話ができたので良かったです。

 支援籍制度を使って行けば、もっとウェルカムかと思っていたのに全然でがっかりしました。でも、「W!次は合唱祭だぞ!待ってるぞ!」と声をかけてくださる先生もいて、そんな先生が一人でもいてくれただけで母はすっごく嬉しいです。
 
 そうそう!息子が卒業した小学校に、支援学校の生徒が通常学級支援籍で交流に行っているそうです。ちょっと嬉しいです。

 MさんがWくんを特別支援学校へと決断した背後には、それまでさんざんに親の付き添いを強いられ、付き添いができなければ行事に参加できないと脅されてきた経過があった。
 また支援員が付くと支援員まかせにされてしまう結果、クラスメートと一緒に学ぶというより支援員によっては本人に好き放題引っ張られてしまうということもあった。

 通常学級にいながらみんなにもまれるのでなく、だんだんわがままになってゆくとMさんには感じられてしかたがなかった。追い詰められたMさんは特別支援学校を選んだ。

 けっきょく付き添いを強いる教育のありかた、すなわち障害のある子は本来ここにいるはずのない子なのだという教育のありかたが、同時に支援員を他の子供も含めて共に学ぶ教育の支援ではなく、本来いるはずのない子の侵入への対策的な役割に追いやってしまう。

 みんなの中でもまれながらぶつかりながら一緒に学ばせたい…その思いが制度によって裏切られ、分けられる道を選ばされる。
 教育委員会は特別支援教育への理解が進み成果が上がっていると得意げに語るが、実態は異なる。

 だからこそ埼玉県教育局ごじまんの支援籍制度を希望する親子が増えてもいるのだが、あくまでも学校対学校の制度なので、Mさんが書いているような人対人の出会いにかえってブレーキをかけてしまう限界がある。

 支援籍よりずっと前から居住地校交流という取り組みが埼玉にはあった。かってどの子も地域の公立高校へ埼玉連絡会などが県庁の知事応接室に泊まり込んで最終的に教育長と全員での対話集会をもった時に、教員たちから居住地交流を認めてほしいと教育長に直談判して理解を得た。

 だから制度はないのだが、分けられた教育の場に通う親子、教員などがその子が本来学ぶべき地元校の同一学年の授業に参加する折衝を行い、了解が得られれば実施することが容認されていた。制度のないこの時代の方が、よほどそれぞれの立場が考え合い、事情を出し合って一緒に取り組んだ。それだけにインパクトもずっとあった。制度化されることによって、ある意味分けられることを合理化する免罪符の役割を担っているともいえよう。そこに託す親子の思いとはうらはらに。

 
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 以前にも載せた県教育局の就学に関する調査結果の表。ここから特別支援学校在籍者と同じくらいの障害のある子供たち、別の教育の場に行ったほうがいいですよと就学支援委員会に勧められた子供たちが、その勧めを蹴って通常学級にいることが推定される。

 膨大な数である。どの子も地域の公立高校へ埼玉連絡会や埼玉障害者市民ネットワークの情報網からはほとんどが浮かんでこない子どもたち、そして親たち。かってはそうした親たちが立ち上がって県内各地につくられていった共に学ぶことを考える諸グループも最近は若い親子の参加がきわめて少ない。

 考えられるのは、みんなが孤立していて同じような立場の親子がいることを知らないこと、さらに重要なのは通常学級で学ぶ上での特別な個別的支援、すなわち通級指導教室や支援員といった制度ができることにより、上で支援員の例を見たように、それらがなかった時代よりもさらに迷いと孤立が深まっていることだ。迷いが深すぎると相談すらしにくくなる。

 また、おそらくはいじめもあるし、からかいもあるし、お世話しすぎやシカトだってあるだろうクラスの中で、しかしさまざまに異なり矛盾し合う関わりがあるからこそ、そこはせめぎあいの場であり、人として行きあう場なんだという実感も日々親子は抱いているのだと思う。だからこそ、教委の勧めをシカトし踏みとどまっている。だからこそ迷う。

ふりかえれば、1979年の養護学校義務化から90年代の半ばまでは、小学校就学に際して教委の強圧的な指導があり、養護学校に決まった子の親の気が変わらないよう念書までとった市教委すらあった。入口の門が固く施錠されようとしていたから、そこで激しい攻防となったぶんだけ、そこをくぐりぬけて入ってゆけば教委・学校もあいつは確信犯だからどうしようもないとあきらめ、特別な手立てはなにもないから子ども達と素のつきあいがひらかれていった。

 結果として、90年代半ばまで、養護学校へゆく子供は減り続け、小学部1年生に一人も入学しない学校すらあった。就学指導担当者も、自分の仕事の意味がわからないと嘆いていたほどだった。

 90年代後半になって、就学指導の方針転換がなされた。当時、市教委担当者がこう言ってたよと関係者から耳打ちされた。「入学のときはとりあえず希望に沿って普通学級に入れてやる。2、3年やってみれば思い知るから、そこで特殊学級なり養護学校へ」と。

 普通学級に籍を置いたままでの通級が広がってゆくのもこの頃で、入口で激しいぶつかりあいなしで入っていき、それでも本来はここに来るべきでない子どもですよという扱いを日常の中で思い知らされ、それでも居直れず、他の子どもについていけないとか、いまはよくても中学校ではいじめの対象になるんじゃないかといったもろもろの悩みと迷いの中で、入ってからのきめ細かな就学指導が継続的に行われるようになる。

 この90年代後半からの流れが現在の特別支援教育につながっているといってよい。

 つぎも「TOKOな日々NO.2」から。

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 TOKO 8年            春日部市 U

TOKOに関わって8年たち、娘も中2になりました。「義務教育9年間は地域でがんばって。その後が長いんだから。」と参加したての頃言われた事を思い出します。

 その頃は、専門の療育機関や塾を捜し求め、次から次へと、遠くまでハシゴで通ってたなあ。いくつ回ったことだろう。

 でも、学校は進んで行くのに、通う指導はどんどん嫌がるようになり、思ったような成果も見られず、結局無理して行くのはやめてました。集団生活の中で身につく事の方が多かったです。通う目的も納得させれないまま、成果をあせって、無理じいして、本人は苦痛だったかも。色々経験したのは私には勉強になりましたが・・・。

 以降、近所で好きな習い事をさせ、近所の子と遊ぶ時間を優先。長い目で見ようと開き直り(あきらめ?)ました。

 中学生になって、周囲も塾に行き始め、自ら希望して進んで行くようになりました。対人関係で落ち込むことも多くて、みていて辛いけど、トラブルから学んだことが社会に出て生かされる事など、TOKOの活動を通して感じました。

 私自身は集団は苦手で?発言するのが苦痛だったりするんですけど、色々な集まりに参加し、賛否両論様々な人の意見を聞くと、自分の考えを軌道修正できたり、視野が広がってよかったです。
 

 もう一度書いておく。「共に学ぶ」とは「分けずに一緒にいる」、ただそれだけのことだ。

 数年前親の会などで「ダンピング」という言葉がはやった。きちんとした教育的な支援なしに通常学級に障害児を入れるのはダンピングだと。ただ形だけ入れるのではまったくその子には苦痛なだけだし、意味がないと。

 なるほど。だがそれは入ってゆく中でせめぎあいながら迷いながら考えてゆくことだ。

 親の目から見るといじめとかからかいでしかないと見られる状況を、本人はそれこそ自分の世界だとみなし、時には楽しみに変えていることさえある。いじめていると思われる子どもたちも、他のクラスの子や上級生が本人をからかったり無視したりすると猛然と立ち向かっていったりする。 

 そんなダイナミクスの只中で一緒に生きながら考えよう。

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