共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す

アクセスカウンタ

zoom RSS 医療観察法・脳死臓器移植法を学ぶ ― 優生思想の土台と闘い

<<   作成日時 : 2012/10/12 00:35   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 埼玉障害者市民ネットワークの総合県交渉の要望書づくりの過程で十分な討論ができず、勉強会をやってほしいという声を受けて急遽設定したW講座。
 
画像

精神病者集団・山本真理さんの印象的な言葉、「医療観察法は反対運動の存在によって支えられている。自分自身矛盾した心情を禁じえない。」すなわち医療保護施設ができ送り込まれる人々が増えている現状の下で、それを監視するべく反対派の医療関係者・弁護士などが外部評価委員会に参加しており、それによって一般の精神病院よりもチェックがなされている。

それが法を機能させる役割も果たしてしまっているということ。われわれがやっている闘いも常に同じジレンマをはらみながら、それでもやらざるをえない。しかし常に迷い、悩みながら。

 特別な教育の場であれ、障害者施設であれ、そこへ送り込まれてゆく人々がおり、彼らがそこから外の地域とつながり、地域へ出てゆくために、その閉ざされた場を共に開いてゆく相棒になる者も必要だ。そう念じてあえて内にとどまって闘いを共にと頑張っている者も少なくないが、そうすればするほど特別な場の存在価値を支えてしまっていることに気づきもする。
画像

 脳死臓器移植に反対する市民会議・古賀典夫さんは、欧米の優生思想をもった医師たちからも脳死状態からの復活例があれこれ報告されていることや、その欧米では脳死どころかALSや筋ジスの人の人工呼吸器をはずして臓器を摘出することも始まっているなど報告をいただいた。

終末期にあり、不治の病であるとされた人の医療打ち切りが肯定されつつあると。日本では尊厳死にせよ本人の意志が情緒的に受け止められる向きも強いが、自殺の権利を認める国は世界中どこにもないのに、病気や障害が重い時にのみ死の権利が云々されることのおかしさ。

個の意志を尊重するのかしないのかにとどまっていては足をすくわれる。人の死はすぐれて社会的な死だ。
画像

 医療観察法にせよ、脳死臓器移植法にせよ、一見医学的な客観性に基づいているように見えるが、「再犯があるかどうか」はもちろんのこと「終末がいつ来るか」も、その人の個体性と社会環境とにより無数の未来がありうるわけで、正解が医学によって導かれるはずがない。

 漠然とは感じていてもはっきりは表現できなかったところも含めて、お二方から貴重な示唆をいただいた。

 1980年代後半に埼玉障害者市民ネットワークの母体である国際障害者年サイタマのつどい実行委員会が県内各地の小さなグループのつながりとしてできた時は、その一員として「精神医療を糺し保安処分に反対する埼玉連絡会」という団体があったし、脳死臓器移植についてはすでに1997年の総合県交渉で以下のような要望項目を入れた。

 「さまざまな疑惑、反対を残しながら、国会で臓器移植法案が成立しました。本県は『ドナーカードモデル県』とされ、知事自ら臓器移植対策を推進すると発言しています。免疫抑制剤問題等、せまい意味での移植医療の問題もさることながら、誰かを生かすために、ほかの誰かを死に至らしめるという、生命をハカリにかける優生思想を許すべきではありません。少なくとも、数々の疑問をはらむ臓器移植のお先棒を県としてかつぐのはやめて下さい。」

 「誰かを生かすために、ほかの誰かを死に至らしめるという、生命をハカリにかける優生思想」という定義が、当時はいまとくらべればすんなりと総合県交渉に参加する人々に受け止められたと思う。
 
 当時の「ネットワーク情報」に、脳死臓器移植法成立を報じた毎日新聞の記事が紹介されている。

 埼玉医大の教授は「当たり前の医療行為。センチメンタルにならないでほしい。」と言うが、記者は「自分や大切な人の『個人的な死』を…法によって規定されることに反発を感じる」と書いている。そして作家・柳田邦男の「今回の法案はひん死の患者を救おうとする救命医と突然の災厄に動転する家族にいる部屋ではなく、もう一方の、臓器摘出のため移植外科チームが待機する部屋の論理で作られた」というコメントを紹介している。

 その記事の下に「ネットワーク情報」編集部は、手書きでこう書いている。

 「法律制度から見ると、『人』が『物や金』に見えるけど、『人』は『人』」
画像
写真は1997年、川口での会議風景。みんな若かったなあ!

 その当時から15年が経過した。1990年代から今世紀初めにかけての「喪われた10年」を経て、かっての高度成長の後半に故郷を捨てて都に流れてきた人々が寄りあってつくった「第2の故郷」としての都会の「地域」―その構成要素としての学校、職場、家庭がさらにこなごなに解体されていった。

 もともと大量生産の工場において人は取り換え可能な部品としての「物」とみなされやすいが、非正規労働に従事する人はそうした「物」ですらなく、ずばり「金」とみなされる。
 埼玉障害者市民ネットワークに集まる諸団体も、2003年の支援費制度、2006年の自立支援法以降は障害福祉サービス事業所のかたちをとったところが多く、障害者の生活や活動がその障害程度に応じた報酬すなわち「金」という形をとってくる。

 こうした時代が深まる中で、「誰かを生かすために、ほかの誰かを死に至らしめるという、生命をハカリにかける優生思想」というコトバを裏打ちする実感も希薄になってきたといえよう。

 とはいえ、「こなごなに解体されて」ゆくからこそ、人が人と出会うこと、他者を通してその暮らしに出会い、暮らしを通して関係に出会う。関係としての自分に出会う。他者との出会いを通して社会に出会う。出会うことのインパクトもまた大きくなってゆく。

 「一緒にいることから」…そして思い違い、勘違いからぶつかりあい、転がりながら始めようという意味はそこにある。こなごなに解体された学校、職場、家庭にこだわる意味はそこにあるのだ。
画像

 今年の総合県交渉(上の写真)は過去をふりかえっても、もっとも事前の要望書検討の集まりがそこここで開かれた。その中で若い人々から、いまひとつピンとこない医療観察法と脳死臓器移植法について勉強したいという声が発せられたのは、今後の埼玉の活動にとって大きな意味をもつだろう。

  

 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
医療観察法・脳死臓器移植法を学ぶ ― 優生思想の土台と闘い 共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる