共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す

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zoom RSS 自立?権利?差別?共生?…「しがらみここにあり!」

<<   作成日時 : 2012/04/18 00:14   >>

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以下は、この写真とともに月刊わらじ4月号の表紙に載せた説明。越谷市障害者生活支援センター苞(ぱお)にはさまざまな障害のある人・ない人が集まってくる。上の写真は4月8日に開かれた交流会の帰りの電車。宮代町の新しい村でイチゴ狩りをして来た。初対面の者も多かったが、一緒に動いて一緒に疲れ、少し親しくなった。駅から現地までの道、「知的障害」と呼ばれる人が車椅子の人を押す。押される人が車椅子の操作と道を教える。お互いが相手の障害に関しては「非障害者」であり、よくわからないから関心が湧く。きっちりとはいかないが、伝え合い、つながる。しゃべれなくとも、動けなくとも、一緒にいれば、その障害が人と人のコミュニケーションのためのメディアに変わる。むしろ、身辺自立している人の方が、仲間に入るのに苦労する。
 

 これまで教育もリハビリテーションも「身辺自立・職業的自立・精神的自立」を目標としてきた。当事者運動も介助や援助を獲得して「自立生活」をめざしてきた。しかし、そうやって指導したり、訓練したり、エンパワメントしたりすることが、結果としてゆめ風基金代表・牧口一二さん言うところの「障害のプラス面」をなくすことにつながっていないか?

 苞(ぱお)は「障害者生活支援」を担っている。しかし、その「生活支援」が障害のある人々をただの障害者個人に還元して個別支援策を講じようというものであれば、いくら人がいても金をかけても社会はその目的を達することはない。大事なことは、障害のある人々が支援と引き換えに社会から分け隔てられてしまう現状に対し、社会の一員として生活してゆけるような支援である。生活のしづらさという点では、初めから「自立」が条件づけられてきた「健常者」と呼ばれる人々も同じだ。このイチゴ狩りの一日のように、障害というザックを背負って、そよ風のように街で生きる支援を!

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 「エンパワメント」という文脈の中で、これまで障害者自身、健常者に近づくべく努力すべき存在として、自分で自分を抑圧するように追い込まれてきたことを意識化し、そこから自分を解放し自分らしく生きることがめざされる。そして、すでにそうした解放へのプロセスを自ら切り拓いてきた障害当事者が、ピアカウンセラー、ピアサポーターとして重要な役割を担うと考えられている。

 「知的障害者の自立生活」という場合には、この上に主として〈本人―支援者関係〉が重なる。すなわち、本人が自分で決めて自分で暮らすための支援とは何かというように。

 そこに貫かれているのは、健常者幻想の土壌である家族・地域からいったん障害者自身が精神的にも肉体的にも離れることを通し、障害を抑圧しない自分らしい生き方を探ることが必要という論理だと思う。

 家族や子どものころを知るご近所は、本人を大きな子ども扱いすることがしばしばだから、そこから分離独立したい本人の思いはわかる。友達や支援者の立場からも、家族らのガードをはずして、本人とタイマンはってつきあいたい気持ちはわかる。実際そうした体験を重ねてきた。

 しかし、待てよ…と思うのだ。個々人の行動としては、いいも悪いもない。そうならざるをえないし、そう行動せざるを得ないというだけだ。しかし、そうした行動へ追い込まれてゆく家族・地域のありようを含めた社会を変えてゆく課題は手つかずで残ってしまう。事態はますます個の問題に還元され、本人と介助者・支援者の孤島が残るだけになる。

 家族やご近所や事業所で働く人々だって、みなそれぞれにバラバラにされ、生活のしづらさが深まる時代になっているのだ。だからこそ、家族としたら本人を大きな子ども扱いすることにより、本人の世話を口実に、それを支えにやっと生き抜いている状況もある。それは差別意識に基づいているが、差別と闘ったり、体をかわしたりするノウハウは体験の中からしか生み出せない。
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差別と闘う…その闘い方は正面突破ばかりではない。生活ホームオエヴィスの家主兼住人の故・TさんとSさんの姉妹がまだ生家の奥の部屋に暮らしていた頃、その一部屋に家族内のなんらかの障害をもつ5人が身を寄せ合っていた(上の写真)。最も動けるのは80代後半の耳の聴こえない祖母で、姉妹のトイレ介助の主力。介助補助がその娘で知的と身体の重複障害。姉妹にはおばさんにあたる。祖母の妹が姉妹の母で認知症のため、介助は無理。姉妹はおばさんや母がとんちんかんなことをやるので、よく怒鳴っていた。
 祖母はSさんの声だけは聴き取れるため、通訳にしていた。親戚との窓口は祖母だったし、わらじの会を通しての街への窓口は姉妹だった。姉妹が誘って、祖母らもわらじの会の夏合宿で海に行った。その時の祖母の感想―「海、どうだったかって?初めて見たけど、よかったね。波が上がったり、下がったりするのがね。海はテレビで見るだけでね。」祖母の時代は幼いきょうだいを背負って子守しながら学校に行った。海など見たことすらなかったのだ。
 さまざまな差別を受けてきた人々がひと部屋で暮らし、その間でも差別と反差別のせめぎあいを重ねながら、しだいに社会の他の人々との関わりの中に、自分達の暮らしをひらいてゆく。
 祖母は「ものび」という昔の農家の記念日を守り、おはぎやらまんじゅうやらを作っては、それを姉妹を通し、私たちにもおすそ分けしてくれた。姉妹は祖母からひと昔前の農村文化を受け継いだ。
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 こうした文化も、少し前、街に出始めた頃の姉妹は、恥ずかしいこと、何の価値もないこと、遅れた風習と思い込んでいた。自分達には語るべきこと、伝えるべきことは何もないと感じていた。しかし、街に出る中で、相手の反応を受けながら、しだいに冗談めかし、さらには自慢話として、あるいは時候の挨拶をかねて、その世界を発信し出す。姉妹の暮らしの文化が、街に生きる人々の生活を照らし出す。上の写真はわらじの会10周年記念式典で「共に生きる街づくり功労賞」を受賞した祖母。

 イタリアの精神障害者たちの協同組合を描いた「人生ここにあり」も、そんな体験を想い起しながら観た。以下は、先日の筆者のfacebookから。

 いま春日部でワーカーズコープ北関東本部主催の映画「人生ここにあり」の上映会から帰ってきたところ。かねがね評判を聞き、一度観てみたいと思っていた。facebookで知り行ってみたが、お客が少ないのにびっくり。もったいない。

 それはともかく、80年代のイタリアで精神病院に入院し薬漬けになっていた人々が、支援者を得て協同組合をつくり、事務所の上のアパートで暮らし始め、周りとすったもんだしながら生活を創ってゆく話。

 1980年代といえば、規模は比較にならないくらいささやかだが、地元の農家の奥から街へ出始めた重度障害者たちと、年一回のバザーの残り物を団地の真ん中に広げて露店を始めた記憶がよみがえる。あのときは人手も足りないから、障害者が交代で介助者もつかず一人で店番をした。すると通りがかりの主婦たちがお金はどこに入れるのとか訊いてくるので、ふだん誰とも話さず家の奥にこもっていた人もおずおずと応答するようになる。

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 そのうち店じまいを手伝ったり、車イスを押してトイレに送ってくれたりする人も現れて…。全然しゃべれない人もいるだけで立派な店長。値段は全部付けておいて、金は首から下げた箱に入れてもらい、釣銭もそこから取ってもらう。

 団地の管理事務所に追い出されかけた時は、そんなお客さんたちが応援してくれたっけ。


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 この映画でいちばん印象に残った人物は、この写真の中で座ってこわい顔をして何もしゃべらない男性。彼は理事長に適任だというので、大事な商談に必ず同席すると、その威圧感で相手が値引き交渉をやめてしまう。同僚たちがパリに出張する日に、理事長は一人一人をじっとみつめ、言葉にならないはなむけの言葉を贈る。こんな人ほんとにいるよねと納得してしまった。なお写真はパンフレットから。

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