共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す

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zoom RSS 高校準義務化と一体だった障害児収容計画のゆくえ…… 「たかが高校・されど高校」

<<   作成日時 : 2012/03/07 01:11   >>

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筆者は、わらじの会のTOKO(どの子も地域の学校へ!公立高校へ!東部地区懇談会)という小さな集まりのニュースレターを、不定期で勝手に(要するに気分で)発行している。つい最近、そのNO.163(というとすごい数に思えるが、後の説明を読まれたし)を発行した。その巻頭に、TOKOとニュースレターのことを書き、高校の取り組みについても述べているので、このブログでも紹介しておく。ちなみに冒頭の写真は、Yくんが今年も受験した県立高校。

TOKOの源流をさかのぼれば

 今年も県公立高校の入試本番に入った。
 このTOKOという集まりは、1988年春、草加市に住む知的障害の中3生徒2名(通常学級と特殊学級に在籍)が他市の生徒とともに、「0点でもみんなと一緒に行きたい」と定時制高校の入試にアタックし、定員割れにも関わらず不合格にされた後も、教員や生徒たちの応援もあって自主登校の末、一人は秋に、もう一人は翌年入学を果たしたことをきっかけにして始められたものだ。

 当時、彼女たちの後も、高校に入る知的障害の生徒が続いていたので、高校のようすや地域生活のことを月に一度語り合い、あわせて小・中学校の就学や学校生活に悩む親たちの話も聞き、時には教員や大人の障害者もまじって一緒に考える集まりを持っていた。(下の写真もその頃)
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 その毎月の報告を葉書1枚にまとめて、いろんな人にお送りしていたのが、このTOKOニュースの原型だ。ナンバーは、当時から数えているので、163にもなっているわけである(その多くは葉書1枚。A4判で作るようになってからは、年数回しか出せない。)。
 
 その後、活動の中心になる世代の変遷や学校・高校をめぐる状況の変化があり、毎月の集まりもさかんになったり、途絶えたりしたが、昨年から「ミニおしゃべり会」として復活している。今号で詳しく報告しているので、ぜひご覧いただきたい。そして、あなたもどうぞ。

いまだから言える「たかが高校だからこそ」
 さて、原点である「高校」。かっての時代を知らない方々が大多数のいま「なぜ高校なの?」という声が聞えそうだ。だが、かっての時代も初めは同じだった。筆者自身がそうだったのだ。「苦労しても3年間じゃない。その先の仕事や生活を考えた方がいいんじゃない?」と、そうたしかに言った。

 いまはこう言う。「たかが高校だからこそ」と。

 高校進学率98~99%。高校は誰もが行く。しかも、高校新卒就職者のほとんどが非正規雇用という現実。「高校は義務教育じゃない。能力・適性のある者だけが来るところ」という意識が高校教員にはまだ根強いが、みんながしかたなく歩く通路でしかない。若者たちのため息も笑い声も、悲鳴も、夢も、みなこの通路をさまよってる。

 そんな、なんでもない普通の道を通さないのは存在の否定。障害があろうが点数が取れなかろうが、一緒に歩ける自由通路に!通りたいものはみな通せ!そう言う。

 また、もうひとつ、「されど高校」ということ。

 以下に説明するが、「高校は国民的教育機関」と文科省が言うほどになったのは、70~80年代に大都市をもつ都道府県が一斉に公立高校を増設したから。

 知事たちは、第2次ベビーブームの子どもたち(団塊ジュニア)に「15の春を泣かせない」と約束した。しかし、その裏に「未就学児解消」に名を借りて、通常学級に多数いるとされる知的障害児等の障害児を追い出す計画がセットになっていた。
 私自身、これまで別々のことと思っていたが、実は高校増設・準義務化のために特殊教育が振興されたといっても過言ではないとわかってきた。

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されど高校―「腐ったりんご」

 「高等学校の適正配置、適正規模、教育内容の多様化ならびに特殊教育についての答申」という冊子がある。「埼玉県高等学校教育振興協議会」が埼玉県教育委員会に答申したもの。1973年(昭和48年)。

 当時の埼玉県では、急激な人口流入を背景に1974年から第2次の高等学校生徒急増を迎えることが予想され、1977年までに県立高校を30校新設することによってこの生徒たちを収容する計画を立てた。1975年には高校進学率が95%に達することが予想された。(下の写真は「埼玉県行政史」第4巻の高校生急増対策の部分)
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 かねて文部省は、「50人の普通学級の学級経営をできるだけ、安全に行うためにも、その中から例外的な心身の故障者は除いて、これらとは別に、それぞれの故障に応じた適切な教育を行う場所を用意する必要があるのです。」(「わが国の特殊教育」:文部省 1965)という方針を進めていた。いわば「腐ったりんご」か「ゴミ」?!それらに適切な教育?!
 この方針を具体化するために、同省は公立小・中学校における心身障害児の実態調査を行ってきたが、県レベルでも行なった。下の円グラフは1969年に埼玉県が行なった「義務教育段階における心身障害児童生徒」の調査。
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 普通学級からのたたきだし計画

 これからわかること。精神薄弱、肢体不自由とも、普通学級在籍が最も多く、半数に近いこと。実は、当時なんの配慮もなかった県立高校へ、相当数の障害のある生徒が入って行っていた。

ただかんちがいしてはいけない。「精神薄弱」といったが、この数は一斉に行われた知能検査などから行政が勝手にカウントしているだけで、本人も家族も周りもあずかり知らない場合がほとんど。大半の人が当時もいまも「非障害者」、「健常者」として自他ともに認識し、「普通」に大人になって、現在40代の社会人・家庭人として生きているはず。

 就学指導委員会も未整備だし、療育手帳ができたのは1973年で、何もメリットがないということで、ほとんど取る人がいなかった( 「肢体不自由」の子どもについては、補装具の支給を受けたりする都合上、身体障害者手帳を取得している者もかなりいたのだが。)。そういう時代だったのだ。

 だから、「普通学級在籍が多かった」というのは、あくまでも教育行政側の認識であり、文部省、教育委員会はその数の子どもたちを普通学級から取り除かないと今後の学校経営に支障が出ると考えていたということである。
 ただ、当時の埼玉県東部地区の状況をふりかえってみても、地域の学校からの追い出し圧力が強くなったのは、70年代末に養護学校が開設された直前になってからである。

 当時は、いまと比較にならない感じで、さまざまな子どもが一緒にいた。ここのところをまちがえないようにしないといけない。
 …というか、いつだって子どもたちはさまざまであり、いまもさまざまなのだ。さまざまが寄りあって、子どもになる。同じとかちがうというのは、そこに何らかのモノサシをあてはめ、分類しようという動きがあって成り立つことだ。分類は分別するシステムに裏打ちされて具体的になり、そのモノサシが何か公正かつ客観的な基準であるかのように錯覚される。

 はじめに紹介した1973年の答申では、1985年までの収容計画として、精神薄弱については養護学校在籍を11%に、特殊学級在籍を68%に増やし、肢体不自由については養護学校在籍を46%に、特殊学級在籍を26%に増やすとしている。普通学級は、精神薄弱では17%、肢体不自由は9%まで減らす。さらに不就学、訪問教育等で、精神薄弱は4%、肢体不自由は19%を見込んでいる。1973年から1985年に義務教育段階の児童生徒の数は53万人から86万人に激増すると予想されるので、それだけ特殊学級、養護学校を増設するということになる。かつ養護学校には高等部をつくる。
 下の円グラフは、1985年までに達成するとした県の障害児収容計画の目標。

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 先に精神薄弱と肢体不自由だけを例に挙げたが、他の障害を含め、県はこの時点で全児童生徒の2.91%が心身障害児だとカウントしていた(文部省の調査では3.69%:1967)。2.91%の大半を除くことは普通学級の経営を安全に行うためにぜひとも必要だったし、さらには高校へ進学する95%から心身の故障者を予め除いておく上でも不可欠なことと考えていたと思われる。

行き場がなく家にいた子はその前に急減していた

 もうひとつ、わかることは、1979年の「養護学校義務化」を挟んだ特殊教育の振興計画について、「完全就学」というネーミングで就学猶予免除者の解消が目的であったかのように語られるが、実は70年代を通し就学猶予免除者は急減していたこと。そして、新たな特殊教育振興計画においても、不就学者は残ると想定されていた事実。

 さて、結論を急ぐ。高校生収容計画は実現されたが、障害児収容計画はいったん挫折した。

就学指導委員会による強引なふりわけを拒否する親子があいつぎ、90年代前半には知的障害の養護学校に新1年生が数人しか入らない状況が一般的になり、高校の門をたたく知的障害の生徒も増えた。
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このグラフで収容計画の目標値は赤線、1985年時点での実際の数値は緑線。

 しかし、90年代後半から21世紀に入ると徐々に特殊教育への流れが大きくなって行く。上のグラフで2011年度の在籍者数は紫の線で示した。
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上のグラフは、文科省の統計からグラフ化したものだから、全国規模になるが、参考に示す。義務教育段階の全児童生徒数が減って行くのに対し、特別支援教育対象児童生徒が増えて行っている。(両者を比べやすいように、全児童生徒については100分の1にしてある。)

 なぜいったん共に学ぼうという流れが大きくなったのに、90年代半ばから再び特殊教育への流れが徐々に復活してきたのか?

大人たちの不安が子どもを分ける

 筆者は不安定な雇用の下、家族の各々の不安と孤立が、「たかが学校」、「波風を立てずに」、「専門家依存」につながったと考える。
 それが「特別な教育的支援」という甘い言葉が普及した背景。

 しかし、それじゃあまりにもくやしいじゃないか。できないから、手がかかるからと、排除すること・されること・受け入れないことで、社会はどんどん生きにくくなる。

 「たかが学校・されど学校」、「たかが高校・されど高校」だ。

まずそこに一緒に
 まずは、そこにいるだけでいい。そこに一緒にいることからしか、変革は始まりようがないのだから。バリアフリーとか、支援制度は、そこにさまざまな障害のある人々が関わり合い、たえず作り直してゆく関係がなければ排除の構造となりうる。

 下の写真は、Yくん。介助の大学生と。今年3月2日、県立高校入試で。


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