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zoom RSS 第34回みんな一緒のクリスマス―その源流 そしてスライドショーへ

<<   作成日時 : 2011/12/26 00:02   >>

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わらじの会三大行事のひとつ、「みんな一緒のクリスマス」その第34回が昨日行われた(下の写真)。
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歴史をふりかえれば、記念すべき第1回は、1978年12月、越谷市立大沢保育所を借りて行われた。保育所が会場になった背景には、当時の会員の主力が越谷市の保母をはじめとする市職員たちや越谷保育専門学校の学生たちであったといった事情もあった。
下はこの初めてのクリスマスのようす。
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農家の奥の部屋から街に出てきたばかりの障害者には、クリスマスというよりもちつき大会がぴったり来た。うれしそうにきねを握るのは、それから12年後生活ホームオエヴィスの大家兼住人となる故・新坂幸子。左端は姉の故・光子。幸子のきねを支えるのは、月刊わらじの今月号に「私のおわりのはじまり」を書いている臼井宏。当時は、たまたま駅の階段で野沢代表の車イスをかついだのが縁で、会に来始めたばかり。右端は、わがつれあいの水谷淳子。まだ耳鼻科を借家でやっていた。後ろのほうにも、現在わらじの会に関わっている人びとの若き日の姿が見える。
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60年代後半から70年代を通じて、経済成長が社会の繁栄につながり、家庭の幸福につながるといった幻想に、つぎつぎとほころびが生じてきた。企業による公害たれ流しや労働災害、職業病、そして、被差別部落や外国人、障害者差別、女性差別などが、表面化してきた。埼玉の地域には、年々全国各地から多くは東京を経由して人口流入が続いていた。さまざまに異なる生活史や感覚をひきずった人々が出会うことで、職場や地域をあらためて見直そうという意識が醸成されていた。

当時の越谷市職員組合の人々は、自分たちの職場の中で一般職と現業職の間の格差があることや、委託労働者の劣悪な労働条件をなんとかしようと取り組むと同時に、地域の人々に対してもただサービスの提供者・利用者としての関係だけでなく、生活者同士として共に生きようと、さまざまな試みを始めたところだった。わらじの会の代表になる野沢、そして新坂姉妹も、会発足以前から若手職員たちが、花見やもちつきに誘うことによって、外に出始めていたのだった。

上の写真は、そんな市職員たちの呼びかけで、一緒に出かけた大久保製壜闘争のデモ。リポビタンDの壜などを生産している同社は、大久保一族が障害者を多数雇用し、職場の中に重層的な差別構造を築いて、利益を上げていた。障害者たちは組合からも排除されていたが、妨害工作をはねのけて自分たちの組合を作った。会社側は切り崩しに躍起となり、裁判になっていた。→大久保製壜闘争の詳細は、 高杉 晋吾著 19771031 『障害者解放と労働運動』,社会評論社 を参照されたい。
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上の写真は、やはり大久保製壜闘争の集会で。車イスの女性は、わらじの会の発足と同時に家の奥から街へ出てきたばかりの押田恵子。彼女は後にわらじの会内に結成される「自立に向かってはばたく家準備会」という障害者集団の代表となる。                   
いずれにせよ、障害者が街で生きるための制度は、当時なにもなかった。いまのように介助で生活するなど、ありえなかった。ボランティアはいたが、施設のお手伝いが主だった。ボランティアが施設の入所者の個人的外出を手伝うことすらも、不公平になるからとか、責任が取れないからと、却下されることがよくあった。

在宅の障害者が街へ出てゆくことは、しばしば家族の不安を募らせ、拒否された。駅へ行けば、階段ばかりだし、当時の改札は狭く車イスが通る幅はなかった。駅員の制止をふりきり、乗客たちの手を借りて、改札をこえ、階段をかつぎ、電車に乗って出かけた。

こんな風になにもなかったからこそ、人と人が直接につながって行動しながら、活動を、生活を考えたのだと思う。初めてのクリスマスの会場が保育所だったというのも、そんな状況の中からごく自然に考えられたのだ。当時の会は、会としての活動の場をもたなかった。だから、話し合いは、個人宅でやったし、月刊わらじは印刷機のある越谷市職員組合事務所に月1回土曜の午後から夜にかけてみんなが集まって、編集、印刷、製本、発送まで行っていた。
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会の車もなかった。だからこんな風に車イスにリヤカーをくっつけて、バザーの提供品を運んだものだ。ちなみに、ここは故新坂姉妹の生家の庭。リヤカーをくっつけてくれているのは、新坂姉妹のお父さん。職員もいないのだから、いろんな人が関わって活動をつくっていた。
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この写真は、1981年、「自立に向かってはばたく家準備会」が越谷市役所玄関で行った署名活動。活動の場や市からの介護人派遣を求めた。こうした運動が越谷市を動かし、2年後に市が独自の制度をつくり、助成金を支給した。

あれからさらに30年、国、県も含め、さまざまな制度がつくられ、多くの障害者が制度を利用して生活する時代になった。活動の幅もさまざまに拡がった。だが、制度に依存する傾向が定着し、制度とかかわりのない普通の人が障害のある人々と一緒に動き、一緒に考える機会はきわめて乏しくなったと感じる。
 
だからこそ、個々の施設や機関の活動とは異なる、ごちゃごちゃとみんなが入り乱れて一緒に動きながら考えるわらじの会三大行事の意味は、ますます重くなっている。

 昔話を長々としてしまったが、語り部は年寄りの大事な役目だと思って、あえて語っている。
 昨日の第34回みんな一緒のクリスマスのスライドショーをfacebookにアップしたので、そんな話を思い出しながら、鑑賞していただきたい。
http://www.facebook.com/media/set/?set=a.242252532510061.55297.100001759480743&type=3

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4skさん 知らなかった情報、トラックバックありがとうございました。ブログものぞかせていただきました。前に埼玉障害者市民ネットワークの活動に参加されたとのこと。共同連大会のころかなと思いました。4skさんがブログに書かれている「もしあの時、私が「介護者マーク」を首から下げていたとしたら、立場上、自閉症の彼の行動を一人で止めざるを得なかったでしょう。「障害者+介助者」対「それ以外の人」として分別(ぶんべつ)されるわけです。周りの人は納得するかもしれませんが、たぶん周囲とは何のやりとりも生まれず、何の展開も起きず、何の関係も成り立つことはありません。」私も同感です。

筆者
2011/12/29 15:24

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