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zoom RSS 橋本画伯の母・ミツエさん 生きざまをさらす 「子どもも年よりも働いていたあの頃」

<<   作成日時 : 2011/10/27 23:38   >>

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 眼病に悩む人々を癒していた祖母と母
おばあちゃんは、うちの土間でいすに腰かけて、機織り。反物…銘仙織ってたって、わたしは覚えてないけどね、聞いた話では。母親はやってなかったね。母親は近所の田んぼの田植えとか、ないとり(苗取り)とか、あとは山へきのことりとか。そういうの、一緒に行ったから知ってるんだけどさ。

あとは山行って、枯枝取ってきて、このくらいにまるいてくるの、なわで。そういうの、あたしも行ってやったけどね。それをうちの周りに立てといて、枯れるとそういうのでみんなご飯たいたり。昔はみんなそんなもんだよね。

うちの母親ってのは、眼科じゃないけど、とうすみ(燈心)っていって、白いこういう細いの、紙じゃなくて綿みたいな、とうすみってよく言うんだよ。目が悪い人が遠くから来るんだよ。充血した眼を、とうすみでこするの。そうすると、血が出るでしょ。それを脱脂綿みたいので拭いて。そういうのやってたの、母親は。また来るんだよね、そういうの聞いて。看板とか、そんな出さないよ。聞いてくるんじゃないかな。あそこ行ってよくなったとか。目が真っ赤になった血が取れるんじゃないの、こするから。それは、私小さい時だけどおぼえがあんのよ。今そんなやってる人いないけどね。眼科行くからね。

そういう人が来ると、ふとんを出して寝かせて、とうすみを二つに折って、そのとうすみでまぶたの裏をこするの。母親はふつうのかっこうで。私も小さいから見てたことあんのよ。姉の話では、おばあちゃんがもともとやってたんだって。今だと目が悪いっていうと、すぐ眼科に行っちゃうもんねえ。

お父さんは、着物の柄付け。紙でね、ちゃんと柄彫る人がいるのよ。白地の反物に紙の柄を合わして、はけで塗ってくの。そうすると柄が付くわけじゃない、白い反物だから。そういうのやってるところへ、早く言えば勤めだよね。近所じゃないけどね。まあ、自転車で通えるところにあったんだよ。

それであたしは6年卒業して奉公行っちゃったから、その後はわかんないけどね。でもやってたんだよね。


山と田圃の村 子どもたちの暮らし
 生まれ育ったのは、栃木県足利市五十部(よべ)町東山。田畑はなくって、父親が山を耕してつくっていたぐらい。父親は生地に絵を付ける工場に行ってた。おばあちゃんがうちで一人で機織りをしてた。母親は婿取りなんだけど、おばあちゃんが亡くなってからは、あちこちの農家に手伝いに行ったりしてた。

 私はほんとは4人きょうだいなんだけど、妹の百合子は子どもの時に亡くなり、その下の弟は赤ちゃんのときに亡くなった。姉がリン子で、橋本芳雄という人を婿に取って、穴原のうちを継いだ。この橋本というのは、橋本市太郎とは関係ないよ。たまたま同じ苗字で。

 私はおてんばだったのよ。姉はそういうのできないの。山なんか栗採りに行くでしょ。そしたら木に登って、上のほうから採ったり。だから傷が絶えないの。姉はそういうのだめだったの。母親と一緒に山行っちゃ、きのこ採りしたりね。わらびとかはこべとかさ、ふきもね。昔はなんでも食べられるものは食べたよね。

 どじょう取りもしたね。田んぼの周りあるでしょ。それが水がないと、そこを掘ってどじょう取り。ここ(越谷)へ来てもずいぶんしたよ。たにしはないま(苗間)、ないまってのは、田植えするでしょ、その前にずっと種をまくでしょ。田んぼにまいて、伸びたら苗取り。こんだ田んぼ植えるでしょ。両方の手で取るのよ。それをこんだ苗をある程度の束にしたらゆわいて、それを2、3本ずつ植えてくんだよね。その周りに出てくんだよね。穴があると、そういうところを掘ると、たにしが出てくるんだよ。それをバケツの中にひやして、泥を吐かせて、それをゆでる。ゆでて中の身を針で取るの。よく食べたよ。黒いところは食べられないから、ちぎって捨てちゃって、それをみそ煮にするのよ。おいしいんだよ。ずいぶん食べたよね、おかずにして。たねをまいた頃ね。

 あのころ食べられないものないみたい。たんぽぽ食べたり、ゆでて。苦いんだけど。お醤油かけて、鰹節をかけて。鰹節、昔はよくけずったんだよ。みんなおかずだよ。はこべもおんなじだよ。みんなね。
 
 小さい時は、近所の友達と、男の子にしろ女の子にしろ遊んでいた。かくれんぼとかお人形遊び、あとなわとびでしょ、お手玉、おはじきとか。裏の子が、男の子だけど同級生。

前のうちが同級生だけど、ひとつ下の女の子。前の子がいちばん仲良かった。椎名千代子さん。学校まで、20分ぐらい歩いて行く。田んぼのあぜを行くと、少し近道なんだけど。同窓会がもう15年ぐらい前にあって、私はその椎名っていううちに一晩泊って、同窓会行ったの。そこに、昔、いじめっ子だったのも来ていて、みんなに「よくいじめられたなあ」って言われてたね。周りがその子を特別に扱うから、逆に本人も口でけんかしかけるみたいな、暴力はしなかったけど、口でああでもないこうでもないって、いじめるんだよね。

子どもたちも働いていた
 4、 5年になったら、学校から帰ってくると内職。5年生ごろから、遊ぶってことをしなかったよね。たとえ子どもでも、すこしは働かざるを得ないからね。椎名って、前のうちのお父さんが、そういう仕事やってたんだよね。そうすると椎名さんっていううちから反物もらってきて、うちで内職するの。糸で絞るわけ。ぽちぽち穴があいてるところを、先がとがったものをあてて、糸で絞る。染める前の準備だね。いろんな柄があるのよ。いまだってどうかやってるとこあるんだよね。真由美※が結婚するとき、しぼりの浴衣を買ってやったもん。着たの見たことないけど。かなり高いんだよ、そういう絞りは。

あときんかき。金で反物にかくの。ものさしに筆をあてて、絵のところに金をいれる。学校行ってても、帰ると仕事していて、遊ぶことなかったね。

 裏の男の子は、4年生ぐらいまでは私たちと遊んでいたけど、私たちが内職やるようになってからは、農家の手伝いしてたかもしれない。昔は遊ぶってしないからね、5年生、6年生は。

 あの頃は、水道とか、ポンプでつぐような井戸もなくて、綱を長くしてバケツを入れて、それで汲み上げるの。つるべ井戸じゃなくて、ただ綱。だから、すいかとかトマトとかを井戸に冷やすわけ。雨ふらないと、水が下の方に行っちゃって届かない。そうなると、地蔵さまに丸い湧き出るような水があるの。そこに、かつぎ棒の両方にバケツをしてかついで取りに行くの。風呂の水をそうやって。洗濯もたらい持って洗濯に行くのよ。

※真由美:橋本克己画伯の妹さん

  

 
  橋本ミツエさんは1929年4月18日 生まれ。1935年4月、五十部(よべ)小学校入学。ここでふれられているように、学校から帰ると内職をやるようになったのは、小学校高学年になった1940年ごろからだった。そして、次回以降に述べるが、1942年小学校を卒業した後、間もなく年季奉公に出ることになる。

 前回のブログで、「その『地域』のもっとも身近な関係が家族」とし、「家族はもっとも身近な他者同士の関係だ。」と書いた。「最も身近な他者」とは、微妙な表現だ。

 マックス・ヴェーバーは、社会関係を共同社会関係(ゲマインシャフト)と利益社会関係(ゲゼルシャフト)に分けた上で、前者について「最も適切な類型は、家族共同体が示している。」と述べる。ただ、ヴェーバーは、それに続けて、「しかし、多くの社会的関係は、共同社会関係という性格と利益社会関係という性格を同時に含んでいる。」と書き、少し後では「たとえば、どこまで家族団体のメンバーがそれを共同社会と感じるか、利益社会関係として利用するか、その程度はまったくさまざまなものである。」としている。(「社会学の根本問題」 マックス・ヴェーバー著 清水幾太郎訳 岩波文庫)

 「身近な他者」を字面通りに説明するにはヴェーバーで足りるが、それだけでは家族と社会、そして家族と個々の成員の間の断絶と一体化をはらむ相互関係は見えてこない。

 吉本隆明は、フロイトの「エディプス・コンプレックス」に触発されつつ、「〈対なる幻想〉を〈共同なる幻想〉に同致できるような人物を、血縁から疎外したとき〈家族〉は発生した。」と考えた。そして、以下のように述べる。「フロイトは集団の心(共同幻想)と男・女のあいだの心(対幻想)の関係を、集団とそれぞれの個人の関係とみなした。けれど男・女のあいだの心は、個人の心ではなく対になった心である。そして集団の心と対なる心が、いいかえれば共同体とそのなかの〈家族〉とが、まったくちがった水準に分離したとき、はじめて対なる心〈対幻想〉のなかに個人の心〈自己幻想〉の問題が大きく登場するようになったのである。もちろんそれ近代以後の〈家族〉の問題である。」と書いている。(「共同幻想論」 吉本隆明著 角川ソフィア文庫)

 すなわち、「家族」の発生と「自己」の発生(それとあわせて「他者」の発生も)が、密接に関わり合っているとしている。この吉本の指摘する家族をめぐる構造の中に、「身近な他者」としての実体が位置付けられると考える。

 筆者が再三引き合いに出すかっての青い芝は、健全者社会を変えてゆく活動として、障害者一人ひとりが自らの生きざまをさらすことを基本とした。そこにおいて家族は、わが子を愛するがあまり、親なき後のわが子の行く末を案じて、子殺しや施設にとじこめる存在であり、依存から自立へと闘うべき対象だった。だが、究極としてめざす健全者社会の変革を、「敵対する関係の中でしのぎをけずりあい、しかもその中に障害者対健全者の新しい関係を求めて葛藤を続けてゆくべきもの」(「健全者集団に対する見解」 全国青い芝の会総連合会 横塚晃一 : 「母よ!殺すな」 横塚晃一著 株式会社生活書院所収)の延長に求めるのであれば、もういっぽうの健全者たちの「生きざまをさらす」取り組みが重要だと思う。

 じっさい無数の健全者がその「生きざまをさらす」取り組みをやってきたのだと思う。にもかかわらず、記録としては、河野秀忠「新・私的『障害者解放運動』放浪史」(障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」に連載中)など少数にとどまっている現状がある。

 吉本の言葉を借りれば、家族は共同幻想としての社会と自己幻想としての個人とのはざまにあり、だからこそ社会的存在として自立しようとする障害者にとって最初の敵ともなりうる。そして、互いの敵対的関係の中でしのぎをけずりあい、関係を変革し、葛藤を続けてゆく。80をすぎた橋本ミツエさんも、その意味でまだ現役である。このインタビューは、そうしたミツエさんの生きざまをさらす闘いの表現と考えている。 (冒頭の写真は5歳ごろの画伯とミツエさん)



 

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