共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す

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zoom RSS 家族はいかに生きてきたか―橋本画伯の母・ミツエさんに聞く 1

<<   作成日時 : 2011/10/26 00:17   >>

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幼いころの体験 - 糸繰りしてて亡くなったおばあちゃん
 栃木県足利市五十部(よべ)町東山っていうところで生まれたの。昭和4年4月18日。
 おぎょんってあるでしょ。おぎょんって言って、7月の天王さまのおまつり(祇園祭)ね。大人じゃなく、子どもがみこしかついで、一軒一軒うちに来るのよ。かついでくると、お金をいくらかでも渡してさ、一軒一軒入ってくるから。だから、いまでいうおみこしだよね。子どもがね、一軒一軒入ってくるの。…とほら、お金くれたりするでしょ。いくらかでもね。子どもたちにさ、お金包んであげるからさ。おまつりをおぎょんっていうのよ、あっちのほうはさ。いまじゃおまつりだけど。

 おぎょんの日におばあちゃんが亡くなったの。あねなんか、少し大きいとみこしのあとついて歩くのよ。あたしは、3つか4つくらいじゃなかったかな。ついて歩けないんだから。おばあちゃんが糸巻きをしてたの。こっちへ糸をかけてさ、それでこっちに輪があるから、それをぐるぐるまくわけ。糸を繰ってて、ぴゅっと前へ倒れて、それで亡くなっちゃったんだから。

 なんの病気かわからないよね。あたしはおばあちゃんのそばにいたの、何もやんないけど、ただそばにいるだけ。自分はまだ小さいから、びっくりしたとか、そういうんじゃあるけど。母親はすぐ前のお勝手にいるから、おばあちゃんが倒れたの、気がついたんじゃないの。むかしは救急車来ないからね。わかるでしょ、倒れてあれすれば、死んだの…。お医者だって、呼んだって来ないもんね。何軒もないもの、町に。そこで死んだっての、わかったんじゃない?かなり年とってたから、80はすぎてたろうね。

 その後が、おとむらいしたわけでしょ。昔は死ぬと、みんな庭あるでしょ、そこを3回まわるんだよ。お寺でもそうだよ。右回りじゃなくて、左回り。うちでも左回りに3回まわって。昔は焼かないから、土葬だからね。3回左回りして、それから穴掘って、そこへうめるんだよね。

 

 冒頭の写真は1963年ごろ。背中のかわいい子は、月刊わらじの最長期連載ページ「克己絵日記」の橋本克己画伯。当時5歳。そのかつみちゃんを背負ってあでやかにほほ笑むのは母ミツエさん。当時34歳だった。

 ここ半年ほど、ほんとにときどきしか時間がとれないが、82歳になったミツエさんの生きてきた時代を、少しずつ教えてもらっている。そこで学ばせてもらったことはなかなかまとめきれないが、いつまとめきれるかも定かでないので、このブログで折にふれ、その一部を紹介してゆこうと思う。今回は、その皮切り。

初回なので、なぜ家族を考えようとするのかについて述べておこう。それは「地域で共に」という、その「地域」のもっとも身近な関係が家族だからだ。筆者は、「地域」とは、一定の土地の区画の中での他者同士の関係性であると考えている。家族はもっとも身近な他者同士の関係だ。
 そして、「共に」とは、単純に「一緒にいること」と考えている。決して、「支えあう関係」だけを恣意的に切り出そうとしてはならない。差別・被差別や支配・被支配の関係もそこには存在する。だからこそ、ニーチェのいう「最善の敵」(ツアラトウストラかく語りき)を得ることもできる。かっての青い芝が「家族は敵だ」とみなしたことも、そうした意味としてとらえたい。
 橋本画伯の「闘争」については、「克己絵日記」、「克己絵日記2」(いずれも千書房刊)や月刊わらじ「克己絵日記」に詳しい。が「闘争」は「敵」がいてこそ成り立つ。おのれの「闘争」とともに「敵」の「闘争」がある。もっとも身近な、そしてもっともよき「敵」として、橋本家の人々の「闘争」を明らかにしていきたいと考えた。

 筆者が橋本一家に出会ったのは、1978年10月8日(日)のことだった。当時まだ借家で診療していた谷中耳鼻科の大家さんの所有する「ちびっこ広場」で、その春に発足したばかりのわらじの会が運動会を開いた。そこへ日赤の看護婦さんだったモンチッチさんの紹介で、橋本一家、というより一族が初参加したのだ。他のみんなから少し離れて、シートを広げ親戚と一緒にお弁当を広げているようすは、そこだけがまさに昔の村の小学校の運動会の風景のようだった。その中に、色白で博多人形のようにかわいいが表情の少ない、女の子とみまがうような、当時20.歳になったばかりの「克己くん」がいた。

 
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言葉は通じないながら、パンクい競争や大玉ころがしに参加して歓声をあげていた。これは彼が月刊わらじに初めて描いた絵。

 当時のわらじの会は、毎月「街に出る会」と称して、公共交通機関を利用してあちこちへ出かけて一緒に楽しむ例会をやっていた。以後、毎月例会に出てくる彼の楽しそうなようすからは、彼が家でしばしば夜叉に変身するとは、想像しようがなかった。だが、それからしばらくして、筆者をはじめ会の何人かのメンバーは、故・己代司さん(父)からの深夜の電話で橋本家にしばしば呼び出されるようになる。到着してみると、超大型の台風に直撃されたような家の中。本人は暗い庭に這って出ていたりした。しかし、われわれが迎えに行き、家に連れてきたり、外を歩いてきたりするだけで、憑きものが落ちたように穏やかになる。その変化にも驚かされた。

 そんな出会いから始まって、33年間。橋本家の中には、数えきれない他人が出入りしてきた。同居人のような、居候のような…その最たるものはかってのJYVA(日本青年奉仕協会)から毎年派遣されてきた1年間ボランティア(V365)であり、橋本宅の離れに、1990年から1998年春まで、8人の1年間ボランティアが寄宿した。彼らを一方の極とすれば、初めての出会いから間もなくスタートした毎週金曜夜の「橋本宅手話会」はもう一方の極といえよう。とにかく橋本宅の中には、いつも他人がまじっていた。そうした家族形態の中から、やがて橋本画伯の不思議な世界が繰り広げられてゆく。

 だが、そんな風に他人を受け入れ、時には引きずり込み、いやもおうもなく一緒に生きてきた橋本家の人々のルーツはどこにあったのだろう。このごろになって、そんな疑問が大きくなり、すでに画伯の父・己代司さんが逝って13年もたった今年になって、やっとミツエさんの話を聞かせてもらい始めた。 (下の写真は最近のミツエさん)

 今回は、まず、ものごころついて間もないころの体験についての語りを紹介した。
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