共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す

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zoom RSS 「共に学ぶ」から17年たってみたら ― 9・4就学・進路を考えるTOKO勉強・相談会によせて 

<<   作成日時 : 2011/08/31 23:58   >>

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 暑い暑い、忙しい忙しい、眠い眠い…と言ってブログ更新をさぼっている間に、もうTOKO勉強・相談会が4日後に迫ってしまった。おくればせながら案内をせねば。
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さて、「共に学ぶ」にこだわる理由は、このイラスト(作・Tetsu)が示すとおりである。本人が伸びるとか伸びないとかではないのだ。
 「本人の意思」もさしあたり関係ない。一緒に育ってこその意思表現であり、意思確認でなければ、「意思」っていったい何を意味するのか。私たちは自分の意思で通常学級を選んでなどいない。筆者の場合、高校や大学へ行かないという選択肢などなかった。大学を辞めたことは自分の意思といってよいだろうが。

 このことは、特別な場に分けられて育った人々の体験や思想は無価値ということではない。それどころか、障害のある子どもたちと彼らにかかわる大人たちという異境の生からこそ、彼らをそこへ追いやらねば成り立たなくなっている社会のおかしさ、弱さといった本質が照らし出されるに違いない。

 だが、その体験や思想を伝え合うためには、壁をなくし、言葉を共有できるまでに生活を共にしなければならない。現代社会は、「共生」を掲げながら、たえず分けることを緻密化してゆく。だから、「共に学ぶ」は永久運動でなければならない。

 
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ということで、勉強・相談会である。
 話し手の竹迫和子さんも、猪瀬佳子さんも、30年以上にわたり「共に学ぶ」にこだわって活動してきた。その道のりの途中で、「どの子も地域の公立高校へ」という取り組みが生まれた。主催団体であるTOKOは、高校の取り組みをきっかけにして、わらじの会の周辺でつくられたグループだ。

 「どの子も地域の公立高校へ」と聞くと、「勉強の嫌いな子が浦和高校に入れたとしても幸せか」というような疑問が返ってきたりする。入試選抜体制も高校ピラミッドも何も変化がないままに、その子だけが特別扱いで入れたとしたら、たしかに地獄の責苦だろう。そもそも特別扱いなどありえないし、求めてもいない。

 求めているのは、入試選抜制度をあらためて、希望者全入にせよということ。ただ、現実はまったく逆に競争があおられ、序列が強められている。だから法制度は変えてゆかなければならないが、すぐ実現するとは思っていない。

 現実にすぐできることとして求めているのは、県内の小・中学校に3000人いるとみなされる障害のある子どもたちに、県立高校の門をもっとひらけということ。その圧倒的多数は知的障害のある子どもたちだ。県教委は入試の公平性を保つためには、「障害による不利益があってはならない」と言っているので、字が読めない、計算ができない、会話が難しい…といった知的障害があっても不利益にならないような選抜のしかたを考えろと提案しているのだ。

 「知的障害」というのは、本人に問題があるというよりも、本人と社会との関係にこそ問題がある。とくに彼らを「大きな子ども」として扱ってきた社会への反省なしには、「不利益」を語ることはできない。「精神年齢」という発想はその一例だ。「知的障害」とくくられる生徒たちひとりひとりの独自の表現のしかたや、こだわりとかおくれとみなされてしまう周り(学校、家庭、地域)に対する姿勢やイメージを共有するプロセスなしには、彼らの高校教育への希望や意思を評価することもできないはずではないか。

 このように説明してゆくと、現在の入試体制では実行不可能だと、県教委は言う。ならば、まず受け入れてから時間をかけて考えてゆくしかないではないか。もちろん、入試選抜制度を前提としてであり、制度にのっとった工夫が、県教委としてずっと宿題だったのだ。そのための方策のひとつが、定員内不合格をさせないこと。県民の税金で運営されている高校だからとうぜんのことが、これまで果たされてこなかった。これが正しく実行されれば、定員割れの高校では、たとえ0点でも入れる。どの子もだ。
 だが、高校統廃合の結果、定員割れの高校がなくなってきた。そこで、ひとつは定員の見直しを求めてきた。知的障害の生徒だけでなく、とくに県南部ではたくさんの生徒が行き場がなくなっている。

 だが、やはり基本的には、先に述べたように、義務教育段階で結果的に行われている「共に学ぶ」教育実践を、県立高校でも受け継いでほしい、そして地域社会にその関係を送り出してほしいということを、県教委に訴え、個々の高校長が最終的に行使する合否に関する裁量権を正しく生かすよう、協力に助言してほしいということである。

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 では、つぎに「共に学ぶ」→「どの子も地域の公立高校へ」→地域で共に生き・共に働く というイメージは、どれだけ現実的なんだろうか どんな課題があるんだろうか ということについて、考えてみよう。

 17年前の「TOKO NO.22」を読み返してみた。当時は葉書版で出していた。そこに書かれたおしゃべり会の短い報告を、その後の成り行きを含めて紹介してみる。「共に学ぶ」から17年たってみたら というわけ。青字が1994年時点、黒字が2011年現在の状況。

「吉川のM君、吉川全日の入学式で、人一倍元気に『はい!』。中学に合格報告に行ったら、定時制すら無理と言っていた特学殊担任が手のひら返す態度。」

 親が新聞で「どの子も地域の公立高校へ」の活動を知り、連絡して来たのだが、担任は養護しかあり得ないと言い張り、まったく非協力的だった。M君は地元でボーイスカウトに入っていたので、そこの団長が高校に「紹介状」を書いてくれた。定員オーバーだったが合格した。このごろは会っていないが、卒業後は、家業の建設業を手伝うと言っていた。

「松伏のTさんは隣市の通園施設から近所の保育園へ。ほんとは町立保育所に行きたかったけれど。今楽しい毎日。」

 Tくんは、脳性まひ。その後、小・中とも地元の通常学級で過ごし、私立高校を経て、いま都内で一人暮らしの大学4年生だが、この春東京都の公務員試験に受かり、昼は大学へ、夜は定時制高校で働いている。

「草加市のHさんは母娘で参加。娘のAさんは、ここのところ外出がおっくうに。」

 このとき、Hさんは「どの子も地域の公立高校へ埼玉連絡会」の最初の高校進学者として吉川の定時制で学んだ後卒業し、数年たっていた。同校では不登校や非行をはじめ中学で「問題児」とされたさまざまな子どもたちを受け止め、教員たちも含めて、一緒に迷ったり、考えたり、学んだり、遊んだりしていた。ボーイフレンドがほしいHさんは、男性の前で倒れて介抱してもらったり、聴覚障害者をよそおって道案内してもらったりする半面、若いカップルを見ると女性のほうに殴りかかったりする自分をおさえられない。吉川の定時制では、そんなHさんもちょっとだけめんどうを見てやるべき友だちとして受け入れられていたのだが…。その後紆余曲折がさまざまあり、Hさんはいま草加市のケアホームに入居して市内の作業所に通っている。

 「越谷のNさん、市障害福祉課・精薄担当ケースワーカーに。」

 市職員のNさんは、長男が不登校になり、学校・教委の無理解に悩んだ末、教育の専門家といわれる人の限界を知り、それまで特殊学級に通わせていた次男を小学校半ばで通常学級に戻した。その後自ら障害児者に関わる仕事を志したのだ。次男は、その後昼間の定時制高校を卒業後、しばらくして越谷市就労支援センターに相談に来所し、現在NPO法人障害者の職場参加をすすめる会の活動拠点・世一緒で月曜日当番を務めている。Nさん自身は、市役所を退職した後、複数のNPO法人の役員を務め、市の男女共生参画支援センターでもお仕事をされている。

「吉川高定教員のOさんは、松伏の給食運動で多忙。」

 当時の吉川の定時制では、職員室に生徒たちが集まり、教員たちと一緒に遅くまでだべったり、楽器を弾いたりしていた。グランドに大音響のバイクが集結したと思うと、暴走族の卒業生が職員室に現れて、「先生、野球の練習するからグランド貸して」と頼みに来たりすることもあった。他の定時制から断られたつわもの生徒たちとつきあってきた教員たちも、面白い人たちがそろっていた。その一人で理科を担当していたOさんは、当時松伏町在住。有機農法の食品の店を開いたり、子どもたちのからだにやさしい給食を求める運動にかかわっていた。Oさんは現在故郷・栃木県足利市に住み、別の県立高校で教員をしている。震災以後、「原発危機を考える」というブログを立ち上げ、毎日更新し、精力的に発信している。

「越谷のHIさん、母親と二人三脚でやってきた普通学級生活の体験をとつとつと語りました。」

 このときHIさんは30才。当時も今も、越谷で一人暮らししている。脳性まひのHIさんは春日部市武里団地で育ち、小学校就学時は養護学校を勧められたが、母親ががんばって小・中とも地元の通常学級へ。いじめや不登校も含めて、HIさんにとっては世間で生きる実感を味わった日々だった。高校は通信制だったが、年齢も境遇もさまざまな生徒たちと出会い、野球部の監督をやった。野球部仲間の一人は、その後会社員になり、家庭を持ったいまも、欠かさず毎月HIさんのアパートに遊びに来ては、片付けなどしてくれている。HIさんは、つい先日越谷市の中学校の体育館を借りて実施された「避難所一泊体験」の実行委員長も務めている。

「越谷のNAさん親子で参加。M君は手話で『高校行きたい。今お母さんの手伝いだけ。困っている。』と語りました。」

 M君は、ダウン症でろう、そして心臓病もある。就学前はろう学校幼稚部と市立保育所に行った。やはりろう学校への就学を勧められたが、地元の小学校の通常学級に入った。小学校の時は、ときどき学校の外へ行ってしまい、お母さんが呼び出されることもあった。やがて他の子どもたちとのコミュニケーションができてゆくにつれ、出て行ってしまうこともなくなり、中学校ではクラスの人気者になった。友だちと一緒に高校にという思いから、地元の越ケ谷高校定時制を受けたが、定員割れにもかかわらず不合格にされた。中学のクラスメートたちが、一人一人、高校の校長に手紙を書いてくれたが、願いはかなわなかった。この時は、そんな状態だったのだ。その後、M君は吉川高校定時制に入学し、充実した4年間を送ることになる。M君のころも県内あちこちから番長クラスの生徒たちが吉川に来ていた。彼らは高校が好きなのだが、授業には出ず廊下や校庭にたむろしていた。M君は言葉は通じなくとも周りの状況把握にたけているので、大番長がたばこをくわえるや否やサッと火を付けたりした。そのうち番長たちも手話を覚えはじめた。
その後、M君は冬場など心臓病がもとで重い症状になり入院することもよくあるため、就職はあきらめたが、近所の祭りでおみこしを担いだり、地域で共に生きることをめざす作業所に通ってパンを作ったりしている。今でも会えば、「高校行きたい」が口ぐせだ。

「春日部のMさん、『うちの子は学校オタクで』と。息子のT君は大学生。大学は苦手な論述式試験ばかりなので単位が取れないが、ぜひ卒業させてやりたいとMさん。

 T君は短い文章は書けるが、長い文は苦手。会話はそれ以上に苦手。でも数学が得意で、県立高校から埼玉大学の数学科に進んだ。「学校オタク」というのは、言いえて妙。みんなと一緒に授業を受けたり、試験を受ける時は水を得た魚のようで、自由行動や休みの時が苦手のよう。大学は苦労したが、なんとか卒業させてもらった後、家を離れてコンピューター関係の会社で働いた後、いまは自宅から通える食品工場で働いている。いまどきならアスペルガ―とかに区分けされ、高等特別支援学校から特例子会社に就職といったコースを勧められていたのではないだろうか。

 最後に言っておきたいことは、ここに紹介したTOKOの諸個人は、それぞれの 共に学ぶ・どの子も地域の公立高校へ を必死に生きた。そして、いま 共に生き・共に働くを切り拓いている人、途上の人、呆然と立ち止っている人、それぞれである。ただ、いずれもTOKOにかかわったことにより、筆者という同行者を確保し、ここに描かれたというだけのことだ。

 それに対して、冒頭で紹介したイラストのギターを抱えた青年は、個人ではなく健常者社会の象徴と考えたい。
 すなわち「共に」には、二方向のベクトルがある。障害者、家族、関係者という個人からの「共に」と、健常者という社会からの「共に」である。
 障害者との出会いに当惑する青年の嘆きは、とても大切だ。

 しかし、かってのような隔離型別学や隔離型施設から、統合型分離教育や地域統合分離型福祉に移行しつつある現在、こうした嘆きすら感じられなくなって行くおそれがある。
 青年自身、自らの足元をこれまでにもまして見つめ直すことが必要になっている時代なのだ。

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
そうです!。そして青年は”荒野”を目指すのです。障害者も”荒野”を目指すのです。
ご無沙汰してます(笑)。ありがとうです。自分の絵が誰かに気にしてもらえるのはやっぱり
素直にうれしいです・・。そして僕も又、・・谷中歯科を目指すのです!また。

伊藤鉄彦
2011/09/05 21:30
久しぶり!「人は自己の友のうちに最上の敵を有せねばならぬ。なんじ友に反抗するとき、彼にもっとも心近きものであれよ!」(ニーチェ)また、絵を見せて下さい。
筆者
2011/09/05 22:59

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