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zoom RSS 関係を特化する壁が崩れたとき―「いわてとわらじと私の暮らし」とは

<<   作成日時 : 2011/08/16 23:40   >>

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盆休みも終わりが迫った16日、「身近な被災体験 第19信」をメール送信した。以下前置き部分。

  こんばんは。ごぶさたしています。

黄色い部屋はかってエアコンがあった頃も、使用した経験がありませんが、今年改装後はそのエアコンも処分され、2階もですがエアコンのない暮らしをずっと続けています。(家中でエアコンのあるのは唯一診療所部分だけです。これはしかたがありません。)

 そんな暑い暑い黄色い部屋から、久しぶりの「身近な被災体験」を送らせていただきます。

 はじめにさる8月7日(日)、「いわてとわらじと私の暮らし」と題して、この数ケ月間、わらじの会の職員を中心とするメンバーたちが交替で、被災地障害者センターいわて http://20110311iwate.blog27.fc2.com/ に出かけ、岩手県沿岸部の被災地で調査・支援活動に関わってきた報告を兼ねて、被災地と自分達の地域の暮らしを重ね合わせて考える市民福祉講座が開催されたので、そこに参加した個人的レポートを。
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 特別ゲストとして、被災地障害者センターいわてに1ケ月半、名古屋のAJUという障害者団体から派遣されて活動してきた山口まどかさんが講演されました。下の写真中央は、コーディネーターのおなじみコッペこと猪瀬浩平さん。その右、マイクをもって話しているのが山口さんです。
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このAJUという団体は、障害当事者を主体とした事業活動を、自立生活の面でも、共に働く事業体の面でも、多岐にわたって先駆的に行っています。

特にAJU自立の家のわだちコンピューターハウスは福祉制度を利用しつつも(通所授産施設〜就労移行、就労継続A,B、生活介護の多機能事業所)、「所員」すなわち障害者が決定の中心となり、健常者のアルバイト、パートを入れ、「所員・職員一丸となった努力の結果、96年からは売上高は1億円を超え、所員の平均工賃は月10万円を超えるようになりました。」(AJUのホームページ http://www.aju-cil.com/ )という活動を行っています。

そのわだちコンピューターハウスの重要な事業として、「災害時要援護者プロジェクト」があり、そのプロジェクトの内容として、「避難支援セミナー」、「間仕切りセット」、「GIS避難支援システム」等の開発を行い、自治体等に提案して活動してきた実績があります。
だからこそ、今回の大震災でも、翌日3月12日から被災した各地へつぎつぎと障害者介助のスタッフを送り込み、現地の障害者センター立ち上げにも積極的にかかわり続けてきたのでしょう。

 山口まどかさんは、ふだんは介護保険の福祉機器レンタルの事業で職員として働いています。女性障害者の介助が必要という一報で、仲間と現地に入り、そのまま1ケ月半支援活動にかかわりました。

 私が関心を持ったのは、

「当初、障害者に特化して支援するようにと指示されて現地へ行ったのだが、行ってみたら避難所はどこも大変な状況で、誰が障害者で誰がそうでないとか言っていられない状況だった。」

という山口さんのことばでした。彼女が行ったある避難所では、認知症で大小便を垂れ流している人がいて、同室の人が「なんであんな人と一緒のところにいさせられるんだろう」と訊いてきたそうです。

これまで福祉サービスや家族の枠の中で分けられてきて、出会わないですんできた人同士が、いやおうなしに出会わざるを得なくなった状況の中に、彼女は向かいあったのでした。その点では「障害者に特化」というのも、それまでの分けられた日常を前提とした表現だったのです。

ただ、直属の上司が「お前の思うようにやれ」と言ってくれたことばが、彼女を支えたそうです。

 わらじの会から被災地へ行ってきたメンバーの何人かが語っていましたが、埼玉に帰って来て、あらためて「自分たちにとっての地域って何だろう?」と自問自答しているようです。

それは、21世紀に入ってから、さまざまな在宅福祉施策が整備され、職員・介助者と利用者という関係が固定化されてきたことへのふりかえりに関わっていると思われます。

会では「障害のある人もない人も地域で共に」と常に語っていながら、日常的には周りの人間関係から分けられた関係の中にほとんどの活動が置かれているのではないかと。

被災後の現地がそれまで分けられてきた関係を崩され、障害者も高齢者もその他の被災者も、ごちゃごちゃになった状況に似た関係が、1970年代末わらじの会草創期の埼玉にもあったのでした。

それは単に福祉施策がまだなかったということにとどまらず、首都圏の急膨張に伴う近郊農村の激しいニュータウン化による旧住民の生活の解体、新住民の生活の混乱といった渦の中の出会いだったといえます。いやおうなしに暮らしと暮らしがぶつかり、折り合いを求めて生きる道を探らざるを得なかったのです。

それが「地域で共に」の原像でした。

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 この市民福祉講座に、2006年に若くして逝かれた小野裕子さん(元くらしセンター・べしみ通所者・上の写真)のお父さんが見えておられました。ファミレスのマネージャーとして、超多忙な年月を経て退職され、今はフルタイムのパートタイマーとして働かれており、いろいろなことをふりかえる日々のご様子でした。

 特に、今回の震災を機に、社会と人間のありようを根本的に問い直してゆきたいと思われたようです。前のお仕事の関係からわらじの会の活動に参加されるのはもっぱらお母さんでしたが、今回おそらく初めて参加されました。

 障害者とか家族とか支援者とか、そうした役割への特化をこえて、人と人は生きています。


 身近な被災体験 第19信の中身については次回に。

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