共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す

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zoom RSS 教育局よ!高校よ! 分けられたものたちの証言を聞いてくれ 

<<   作成日時 : 2011/03/07 00:18   >>

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さて、24日の、主席への抗議と申し入れの場へ戻ろう。今回でひとまず報告を終わる。
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 この教育局が入っている県庁第2庁舎1階ロビーにあるアンテナショップ・かっぽ常勤の板倉が、主席に問いかけた。かっぽは、社会福祉法人埼玉県身体障害者福祉協会と社団法人埼玉障害者自立生活協会で構成する県庁内福祉の店運営協議会が運営主体で、1997年4月にオープン。県内各地の施設等から利用者たちと職員等がセットで、日替わりで当番に来る。施設等の自主生産品や日用品、食品、県キャラクターグッズ等の店頭販売のほか、庁舎内への弁当配達と菓子・飲料の出張販売を毎日行っている。板倉は常勤で働き始めて2年目が終わるところ。県職員に顔見知りが増えてきたが、教育局交渉にはこれまで出たことがない。今日はたまたま閉店時に筆者らと会い、一緒に来た。

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 「私こういう場は初めてなんですが、さっき主席が特別支援学校で適切な指導が行われていると話されたのを聞いていて、違和感を持ちました。かっぽには、毎日日替わりであちこちからお店番に来てもらっているんですが、養護学校を卒業した人たちを見ていて、その人たちにとって何が特別な支援だったのか、わからなくなってくるんです。一見なんでもできそうな人が、お店番をやってみると、簡単な読み書きも出来ないとかよくあるんですね。10倍お金をかけて手厚くやっているはずなのになにをやってきたのか。聞くと、1回もテストを受けたことがないとか、ずっと作業をやってきたとか。私は前にデイケア施設で働いていたんですが、当時もずっとそのことを感じていました。学校の時にやっていないから、卒業後の受け入れ先が教えている状態なんです。どう思われますか。」

 主席が答える。「それは私もわかります。立場上言えないですけど、定年退職したら言いたいことがあります。」
主席の「わかる」という言葉は、どういう意味だろうか。

 再び「排除する学校…」(鈴木文治著・明石書店)を見てみよう。

 「ある高校の校長は即座にこう言った。特別支援学校から戻った教員が高校で使える教員だと思うか。彼らは高校で勤まらないから転勤したのだ。使える教員は転勤しない。特別支援学校はそういう教員が行くところだ、と。
…その校長は、特別支援学校の校長が3人いる前で堂々と語った。私は語った内容より、その場で公言し事実に驚いた。その発言を高校の校長は誰ひとり諌めることはなかった。それはみな同様に思っているからだろう。
 これは差別なのか、人権侵害なのか。私はこの事実を教育長と人事を管轄する教職員課長に伝えた。二人ともこの発言に怒った。しかし、高校の校長会でこの問題を散り上げることは一度もなかった。」
 

 主席もまた神奈川の校長たちと同様の思いを抱いているから、立場上言えないということだろうか。

 しかし、板倉の言った「簡単な読み書き」とか「1回もテストを受けたことがない」という話は、たんに分けられて育ってきた結果にほかならないと筆者は考える。教員の能力がどうのこうのという話ではない。
 
 筆者が漢字の読みを覚えたのは、いつも長火鉢の前にいて、時々三味線を弾いていた小粋なばあちゃんの読んでいた「オール読物」(大衆小説雑誌)を盗み読みしていたからである。当時の子どもには刺激が強い挿絵などが散りばめられていた。男女の交わりの場面などを想像をたくましくして読みこむことで、難しい漢字を覚えた。その本をときどき学校へ持って行き、自慢したのを今も覚えている。

 街を歩けば読むべき字、魅力的な字が溢れているし、子ども同士の遊びやつきあいでもちょっとしたメモやメッセージを書く必要がある。

 学校での学びが日々の生活に裏付けられて、初めてからだに沁み込むのだと思う。学校と家庭・地域の生活が分けられている状況では、いかに有能な教員に指導されたとしても身に入らない。

 日高の校長に会った時は発言の機会がなかった吉田が、主席に向かって言う。

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 「朝から日高高校に行って、ここへ来ました。私はずっと養護学校でした。いまはデイケア施設で働いています。学校や施設で、しゃべれない、動けない人の意思をどうしたら伝え合えるのかなと、よく考えます。神奈川県の要求書を見ますと、記述式問題を内容は変らない範囲で選択問題に変える、という要求が通っていますね。記述式のままだと出来ないけど、選択問題に変えることによって伝わる可能性が出てきます。それが配慮じゃないでしょうか。あと、入ったらお金がかかるからというのでハードルを高くしている印象があって悲しいです。勉強したいと思っている人が、自分の意思を伝えられないというのも悲しいです。ちゃんと考えてほしいです。」

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 吉田の発言に触発されたように、六澤が語る。
 「わたしはくらしセンターべしみの利用者で、20歳です。知的障害があります。私の体験を話します。コミュニケーションの問題が私にもありました。私は幼稚園から高校まで普通学級に通いました。高校は2年前に卒業しました。高校のとき、試験問題が難しく筆記試験がほとんど出来ませんでした。選択問題しか解けないこともありました。数学も苦手で、簡単な計算しか出来ません。

 私は入学したときに、定員一人オーバーで合格しました。入学してからもちゃんと通学できるのか不安でした。一人で電車に乗るのがすごく苦手で、挑戦したんですけど、パニックになってしまって問題を起こして、練習しても出来なくて、学校と相談して友達や先生に付き添ってもらいました。

 友達付き合いでは、相手の喋りが早いと聞き取れないんです。それで周りの友達づきあいでも、トラブルとか大変でした。それが3年間続きました、高校も授業のペースが速くて、テストでも上手くゆかずに赤点をとったりしていました。」

 六澤が伝えたいのは、入ってしまえば、不安やトラブルは常にあっても、友だちも先生もそれにつきあいながらなんとか一緒にやってきたよ、だから門前払いしないで!ということらしい。

 日高高校では泣き出しそうなのをこらえて黙っていた田邉が、口を開いた。

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 「自分の体験を話します。高校は行ってません。小学校は普通学級でやっていましたが、中学入学前に中学校の校長先生と母親が自分の能力を見て、自分の知らないうちに特殊学級に行った方がいいと決めてしまいました。

 勉強は嫌いですけど、黒板を写すとか先生の言葉はわかっていたので、普通学級でやりたかったんですけど。3年間ずっと特殊学級で、普通の健常者の人と話ができず、特殊学級の友だちしかつきあいがありませんでした。」

 主席はどう考えたんだろうか。中学特殊学級卒業後、田邉は地元の事業所に就職するがすぐ辞めてしまう。せっかく田邉の能力・適性に合わせて教育的支援をしたのに、本人はきちんと自己評価・自己管理ができてないため支援が生きなかったと見るのだろうか。

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 ここに権田文雄著「特殊学級卒業生は、いま…」(創世記刊:1979)という本がある。著者は埼玉県内で特殊学級の教員を長年務めた。当時は、中学特殊学級卒業後、ほとんどの生徒が就職していた。ほとんどが養護(特別支援)学校高等部に進む現在では考えられないほど、担任が地元企業を歩きまわり、就職の世話をしていたのだ。
権田はある時思い立って、社会に巣立った卒業生たちのところを訪問して回った。

 「『特殊学級に行ってよかったと思うか?』私は別れ際に質問した。彼は何しろ特殊学級ではお山の大将だったのだから、あるいは彼の口からは、あのころがいちばんよかった、という言葉がきかれるのではないかと、私は考えていた。

 だが、彼は予想もしなかった言葉を吐いた。たしかにそれは彼の真情にまちがいなかった。
『だめ、だめ、あんなところ。いいわけがないじゃないの。先生、まだそんなことしてるのか、はやく止しなよ。ぼくが転職ばかりしてるのは、先生の責任だぞ。こんどは誰も特殊学級のことを知らない遠いところへ行って就職するんだ。ビクビクするのは、もうたくさんだからな』」


 権田はまた、ある小学校で、特殊教育への理解を深めるために、自分が普通学級の授業をし、普通学級の教員が特殊学級をみたときの光景を書いている。
 
 「そのとき、一人の少年が私をみるやいなやさっと着席し、まわりで騒ぎまわる仲間たちをよそに国語の本を出して読みはじめた。読むふりをしただけなのだ。彼は上目づかいに私をうかがっていた。そのときのいやな気分を私は忘れない。彼は入級リストにのせられていて、私が説得に行ったが、親が断固として入級を拒否したのだった。私が彼をつれにきたとでも勘ちがいしたのだろうか。
 私はよく町を歩いていて、そんな目つき、人さらいをみるような目つきを感じたものだ。みんな特殊学級が嫌いだった。私だって誰よりも嫌いだった。」


 他人事ではない。筆者自身も、ある男性に街で出会うと、人さらいのように嫌われ、避けられる。彼はかって交通事故で半身まひになった。ハローワークや折り込み広告で仕事を探すが、みつからない。やっとパートで働き始めたが、すぐに辞めてしまう。同僚の視線やちょっとした言葉に傷つくのだ。筆者のいる谷中耳鼻科の近くを歩いていて、プレハブで縫製をしている小さな工場をみつけ、雇ってくれないかと言った。半身まひのためミシンは難しそうと思った工場主が、耳鼻科の黄色い部屋に彼を伴ってやって来た。
 
 当時の黄色い部屋は、自立に向かってはばたく家準備会の活動拠点になっていた。本人は、連れられて来た時から悲壮な表情をしていたが、けっきょく話を聞いただけで帰って行き、二度と来なかった。その後、街で見かけた彼に声をかけると、来るな!と叫びながら、よろよろと逃げて行くようになった。死神に会ったような彼の表情から、筆者は自分の位置をいやおうなく知らされる。

 「障害の受容ができていない」と言うことはたやすい。「他の障害者を差別している」と言えないこともないだろう。しかし、「健常者」として育ち、生きてきた者が、ある時を境に「障害者」へ反転する。その境に横たわる深淵をのぞいてしまった時の恐怖を忘れずに保ち続けているとしたら、その生き方もまた否定されるべきではないだろう。
 何段階もの条件を設定して、「障害者」としての自分に慣れて行くことが、社会的排除・差別の構造に鈍感になってゆくことでしかないのなら、深淵はさらにさらに深まって行くだけだろう。

 そう考えると、いま通常学級や高校で、扱いにくい子、不適切な行動をとる生徒を、特別な教育的支援が必要と考え、教育相談に行くことを勧めたり、ハローワークで就職困難な人たちに障害者手帳の取得や障害者就労支援機関を紹介することについて、それが誠意をもっての関わりであればある程、そのことの重さを分かち合うべく、腹をくくって行なってほしいと切実に思う。

 
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筆者が平日の多くを過ごしているNPO法人障害者の職場参加をすすめる会・本部の活動拠点「職場参加ビューロー・世一緒(よいしょ)」にいる者の多くが、ハローワークを訪れた後、「知的障害者」になって、やがてここへ来た。その前に十数年一般雇用されていた者もいる。普通高校の卒業生も少なくない。自らを語り、他者と関係を共有するための言葉が、なかなか絞り出せない。

 田邉もその一人だった。いまここへ来て、少しずつ凍っていた言葉が溶けはじめている。

 
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最後に門坂美恵さん。狭山のペンギン村代表。息子の豊くんが全日制高校を卒業して、現在企業で働いている。どの子も地域の公立高校へ・埼玉連絡会の前代表。

 「この前、倍率がある高校で知的障害の生徒が入学したら、ほかの生徒が納得しないって、主席が言われた話がまだひっかかっているんです。
うちの息子はいま話されていた人たちよりもっと具体的な話ができないけれど、それでも高校に入学しました。うちの子がお金を落として、校門のところで困っていたら、これでパン買いなよと不良と言われる子が金を貸してくれたんです。それを遠くで見ていた子が、豊くんがカツアゲされてると職員室に言ったらしいんですが、実際は逆だったということがありました。

 高校3年間無事に過ごせたのは、欠席しないし、授業をサボらない、ほかの子供たちがそれならと納得したりする、そういう納得の仕方をほかの生徒がしていたんです。

 パニックを起こして他の生徒を殴っちゃったんですけど、殴り返した生徒が停学になって、起こさせた豊が何のお咎めもないのはおかしい。私は特別な扱いはいりませんって言ったんです。それで、両方が1週間の停学。それはお互いが納得した。障害者だからと特別扱いもしなかったし、いい経験でした。ペナルティの実体験でした。養護学校に行っていたらそういう経験がなくて、社会に出てしまったでしょう。一緒に育ちあう中で経験できたんです。

 子供は主席が言うほどそれほど馬鹿じゃないです。先生もそれを見て育つんです。そういうことを経験しないで、最初から受け入れないという姿勢はもったいないです。そこを指導するのが県だと思います。だからこの間の主席の発言は腹が立ったんです。」
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 上の写真は、埼玉障害者市民ネットワーク主催・総合県交渉2009で、近況を報告した門坂豊くん。

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