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zoom RSS 高校に寄せる 障害者等の生と思い―県立高校前期募集発表の日

<<   作成日時 : 2011/02/27 22:14   >>

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2011年埼玉県公立高校前期募集の発表の日。6年間受験し続けた吉井英樹君は、またも県立日高高校(全日制普通科)を落とされた。今年中学卒業予定の松森彪琉君は、県立吹上秋桜高校(昼間の定時制)に合格した。この日、どの子も地域の公立高校へ・埼玉連絡会は、埼玉障害者市民ネットワーク等、連携している組織にも呼びかけ、日高高校と県教育局へ緊急行動を行った。そこでの話し合いの内容については、次回に報告する。今回は、そこに参加したのはどんな人生をひきずった者たちだったか、そしてどんな思いを抱きながらそこに参加したのかを、伝えておきたい。

 24日、埼玉県立高校入試前期募集の合否発表を見に、みんなで日高高校へ。発表は午前9時。私たちは県東部地区のせんげん台からさいたま市を横切って、西部地区の日高市まで車で移動。私(山下)と運転の今井は、遠い昔の高校生。

 
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そして同乗の埼玉障害者市民ネットワーク・野島代表は、この「どの子も地域の公立高校へ!」の取組が本県で始まって間もないころ、すでに30代で一人暮らしをしていたが、養護学校高等部卒でも職業科なら高校受験可能と聞いて、若い知的障害者たちの受験を応援するつもりで定時制高校を受験し、2度目で合格して、念願のセーラー服を着て高校に行き、卒業した。当時、昼間は自立生活運動の旗頭として多忙な日々を過ごし、夜は高校へ。野島にとっては、自分と同年輩か時には若い教員に、生徒としてはっぱをかけられたりするのが、青春を生きなおしているようで新鮮だったという。

 仮設スロープがかろうじて置かれただけのバリアフルな校舎。高校は介助者を連れてこいと求めたが、野島は拒否。あえて同級生たちにその都度声をかけ、移動やトイレを手伝ってもらった。春日部の自宅から高校がある与野本町までの通学も介助者なしで電車で行った。まだどこの駅にもバリアがいっぱい。毎日通うので、階段をかついでいた駅長が腰痛で入院したり、応急に作ったためきわめて傾斜が強く駅員の介助がなければ使えない「久美子スロープ」が作られたりした。野島は、電動車いすで電車に乗る時代を埼玉できりひらいた先覚者といえる。
夜遅く帰ってくると泊まりの介助者が待っていて、風呂に入り、寝る。そのついでに宿題を手伝ってもらったり、休みの日に学生介助者に勉強を教えてもらったりした。2年たった後、学校として養護教諭が野島のトイレ介助をする体制を組んでくれた。校外学習のディズニーランドは、介助者同伴でなければ連れて行かないと言っていたが、あえて朝一人で行ったら、けっきょく教員たちもみんなで手伝って出かけた。
 青春を取り返した野島が、いまだに心を痛めるのは、そもそもその高校のすぐ近所に住み、ずっと通常学級で学んできた知的障害の武内もとみさんを応援するために受験したのに、彼女は定員内にもかかわらず不合格にされたショックで、もう高校には行かないと決めてしまったことだ。発表の日、抗議行動など「不測の事態」に備えてか、離れて並んで立っていた教員たちに向かって、もとみさんは頭を下げ、帰った。拒否された高校に、心の中で封印したのだろう。二度と近づこうとしなかった。

 
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さて、24日、日高へ向かう車には、ほかに3名。やはり電動車いす使用の吉田は、「ぜひ高校の合否発表というものを見てみたい」とわくわくして参加。養護学校しか知らない彼女は、以前成人式に行ったとき、にぎやかな集団がそこここにできる中、知り合いが誰もいない寂しさが身にしみた。通所施設の職員として働きながら、介助者を入れて借家で一人暮らし。いま市の障害者計画を検討する施策推進協議会の委員として、小さい時から共に育ち・学ぶ施策をしっかり盛り込もうと他の委員にはたらきかけている。

 
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小河原は、軽い下肢まひと水頭症で、体育を除いては、小・中学校を通常学級で学んだが、中学卒業後はとうぜんのように養護学校高等部へ進んだ。その後近所のスーパーで働いたが、2年ほどで発作が起きるようになり退職後、家にひきこもっていた。吉田が働く通所施設の利用者となって間もない。高校という選択肢はかっての彼女になかったが、気になるようで、今日も参加している。

 
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田邉は、両親の離婚など家庭の事情もあり、小学校の勉強が遅れ、いじめも受けていたが、中学に上がる前、母親が校長によばれ、自分が知らない間に特殊学級入級が決まっていた。入学式でそれを知った彼は、中学時代を通して、学校には行ったり行かなかったりだった。いじめも受け、友だちもほとんどいなかった。卒業前のある日、校長室へ入って行き、校長をなぐってしまった。卒業後働くが、家庭にやすらぎを得られず、仕事も続かない。最後は家に帰らず遊び歩いた末、悪い仲間と非行に走り、警察のお世話になったりした。障害就労支援センターに相談に来たことがきっかけで、筆者は彼を知る。家庭や学校で排除されてきた体験が根深くあり、この日も日高高校の校長のそっけない応対を聞いていて、泣きだしそうだったと言う。あらためて、高校に行きたいという思いがふくらみつつある。
 
せんげん台を車で出発したのが8時。発表が9時。9時を過ぎて間もなく、吉井英樹くんの母・真寿美さんからの「不合格です」というそっけないメールが、携帯に入る。その後のメールでは、校長が吉井さんたちの前を通って、「午後2時に帰る」と言って校外へ出て行ってしまったとのこと。結果いかんで校長にまた話をしたいと、先日県に伝えておいたのだが。ただ、車はまだ上尾のあたりを通過しているところなので、午後のほうがいいかも。

 
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吉井さんたちは、高校近くのファミレスで待つという。車は10時過ぎに現地付近に着き、まずは最寄り駅のトイレにみなさん行く。その間、車で待っていた筆者の携帯に、松森の母ちゃんから「合格しました」との報が入る。「よかった!おめでとう!」、「ありがとうございます。さっき携帯が通じなかったんで、先に中学に報告に行ってきました。担任の先生も泣かれていました。」吉井さんに、その旨メールで知らせると、「松森君合格  良かった 」とデコメール付きの返信が来た。

 
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駅前でトイレへ行った一行を待っていたら、電動車いすの植田、橋本二人組が電車で到着。植田は、小学校の給食当番の時、廊下で転んで頭を打ち、下半身まひ、高次脳機能障害。そのまま中学まで通常学級で学び、高校は私立の自由の森学園へ通い、その後音楽大学を卒業した。障害者運動との出会いは最近のこと。一昨年から、社団法人埼玉障害者自立生活協会の事務局長を務める。この法人は、共に学ぶを掲げており、吉井さんも理事の一人という縁があるので、事務局長の仕事の一環で来た。

 
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橋本は、OMIYAばりあフリー研究会の運営する通所施設・NEUE(ノイエ)のメンバー。ずっと養護学校で学び、卒業後NEUEへ。この施設は、中での活動はニュースレターの編集・発行と会議が主。作業は公共施設や企業へ出かけてのパン等の販売。通所は公共機関利用が原則。「やさしい言葉で分けないで」が同施設の名キャッチコピー。橋本自身は、他の施設・団体等のメンバーとともに、「山にこもりましょう巡業団」を作り、団長を拝命しているが、この巡業団は社団法人埼玉障害者自立生活協会編集・発行のブックレット「子どもたちは、いま」に収載されている「山にこもりましょう」をペープサートで演じて回る活動をしている。その「山にこもりましょう」こそ、知的障害の山田葉子さんが通常学級、さらには公立高校へと、共に育つ過程を母・山田町子さんが綴ったものなのだ。さらに、NEUEには、山田さんより前に公立高校で学んだ知的障害者・神田くんがいるし、そのお母さんが施設長。そんな関係を背負って、またここなら電車一本で行けるからということで、橋本が来た。
 
 
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まずみんなで日高高校へ。日高高校は、ガラス張りの掲示板がある。合格者の受験番号が貼り出されている、その前には、もう受験生たちの姿はなかった。吉田は、「コンパネみたいな板に、紙が貼り出されるのかと思ってた」と言う。合格者がいっぱいいる場合は、掲示板で間に合わないから、そうなるだろう。TVでしか知らない吉田のイメージはちょっと崩れた。また、発表から2時間もたってしまい、悲喜こもごもの情景を見ることはできなかった。ただひとりだけ、母親らしき人が一人携帯で貼り出された受験番号を撮っていただけ。そのほかは、誰もいない。
吉井くんの番号を携帯で聞き、確認するがやはりない。ようやくにして、切り捨てられた実感が大きくなる。

 それから、吉井さんの待つファミレスへ。ほかに坂戸の林さんと東松山の神田さんがいた。ここで昼食をとった後、校長の約束した2時より30分前に応接室へ。その前に障害者メンバーたち何人かは、日高高校の多目的トイレを使った。以前、男子トイレと女子トイレが並んであった所を、男子トイレをつぶして多目的トイレにしたらしい。使用した野島や吉田の話では、駅のトイレとくらべて便座が高くて使いづらかったため、今井に事務所へ行ってもらい、応急で厚い本を2冊ガムテープでとめて、便座と車椅子の間を足を踏ん張って移動するときの台にしたとのこと。他の学校でも便座が高いという話を聞いたことがある。学校はどういう基準でトイレを作っているのだろうか。
階段には左側の手すりの所に家庭に設置されているような昇降機が付いていた。たしか、前に車椅子使用の生徒がいたため。この生徒は、トイレをどう使っていたのか。

 応接室で校長を待つ間に、参加者で自己紹介をし合った。他地域から来たメンバーの中にでも、小河原や田邉はどちらかといえば新顔。林さんや神田さんは、高校の教育局交渉では常連だが、交通アクセスや自立生活協会のセミナーなどは、参加できないことも多い。

 
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林さんは「有名な林ひろみの母です。」と自己紹介。ひろみさんは、1990年、県立小川高校定時制に入学した。小学校は特殊学級だったが、中学から通常学級へ。いじめも受けたが、友だちもでき、高校受験のときはクラスメートたちが、「なんとか合格させよう」と対策を練ってくれた。少しでも点数を取らせようと考えた秘策が、選択式の問題だけやり、たしか「イ」だったか、とにかく同じカナだけを書くというもの。その特訓をやった。そして、めでたく合格した。
 まだ、どの子も地域の公立高校へ!の取組がスタートして数年のころだった。最初に高校の門を叩いた3人の知的障害の生徒のうち、本間さん、熊谷さんはその後なんとか吉川高校定時制に入学していたが、連絡会代表の猪瀬さんの子・良太くんは不合格にされ続けていた。そうした中で、ひろみさんは中学の友人たちの応援で入学できたが、受け入れた小川高校ではその後ずっとひろみさんを進級させず、1年生のままにした。
中学のクラスメートたちが高校を卒業して、4年制大学を卒業する年に当たる7年目の1996年3月に、ひろみさんは自主卒業式をして、小川高校を去った。この前後になると、連絡会の活動を通して、障害のある生徒たちがかなり高校生になっていた。連絡会として、受け入れた現場教員や同級生らを招き、留年・進級問題も含めて話し合った。なお、ひろみさんは、その後上福岡障害者支援センター21のデイケア施設「くまのベイカーズ」メンバーとなり、現在は同施設と連携してクッキー生産業務を行っている特例子会社の社員として働いている。

 
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もう一人の神田さんは、名前しか言わなかったが、吉井さんが「九条の問題とか、いろんな市民活動をしておられます。」と紹介していた。社団法人埼玉障害者自立生活協会の会員でもある。(つづく)


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