共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す

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zoom RSS 家族の地獄と極楽、危険を賭ける権利、介助―埼玉フォーラムを終えて

<<   作成日時 : 2010/12/01 00:04   >>

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 前回の末尾に、「Nothing about us , Without us 」を、「分け隔てられないこと」と、併せて取り組むことが、筆者の言いたいことだ、それは、学校、職場、地域で共にということにつながる、と書いた。

 そのことに関して、これから述べようと思うのは、あの埼玉フォーラムで噴き出した「施設や特別支援学校をなくさないで!」という叫びは、たんに欧米に比べて遅れている日本の権利意識を示すものではなく、むしろ学校、職場、地域で共に生きる関係の根っ子がそれだけ深いことを示しているということだ。

 ただ、まちがえないでいただきたいが、筆者が言う共に生きるとは、必ずしも支え合って生きると同義ではない。いやおうなしにそこに一緒にいる。時には首を絞めたりしながら、しかし暮らし合う日々の中で、最重度といわれる障害者が、専門家が一人もいない家庭の中で、家族の一員として喜びや悲しみを共にしている。地獄と極楽が同居している。
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(写真は、そんな家庭をひきずりながら、街へ出始めたころのはばたく家準備会の情景)

 どの障害児家庭にも、療育や医療の専門家をほとんど必要としない、共に生活する独自のノウハウがある。だから、それを学校へ、職場へ、地域へ、伝達し、展開してゆくことが大事だというのが、筆者の考えるところだ。社会全体が、この地獄と極楽を共有できれば、それは地獄でも極楽でもなくなり、社会のありようをいたるところで変える要素となるだろう。

 だが、「これ以上は共に生きられない」と子殺しにいたる親も、あとを絶たない。その寸前まで追い詰められて、施設や特別な教育の場へ子どもを預けるにいたった親たち、その親たちと施設職員、特別な教育の場の教員たちが、施設や学校をなくすなと訴えていたのだ。

 かえりみれば、いま春日部市武里団地で一人暮らししている藤崎稔さんの母・故藤崎寿江さんも、そんな親の一人だった。初めて出会ったのは、県東部地区に総合養護学校をつくる会の会合。もう1970年代半ばのことだった。

 息子は、都内の養護学校の寮に入っていたが、都が就学猶予・免除の子をみな養護学校に受け入れる方針になり、他県の子どもはそれぞれの地元に戻って、地元に養護学校を作るようにと指導され、つくる会に結集した。地域の学校でお客様だった子が養護学校で生徒会長になり、自信をもった…などと語り、当時つくる会の中に生まれていた「地域の学校へ」という考えの人々に、水を浴びせていた。だが、「親の考えと子どもの考えはちがう。」とよくもらしていた。

 そして、越谷養護学校ができて、息子の稔さんは、自宅に戻ってきてそこに通学するようになり、級友からわらじの会を紹介され、街へ出始めた。毎週のようにボランティアの学生や社会人と街に出て、世界を広げてゆく稔さんを通して、当時養護学校のPTA会長だった母寿江さんも、息子が地域で生きるイメージを少しずつ持ち始めた。
 1980年には、八木下浩一団長の率いる「スウェーデン福祉体験旅行」に、筆者らと一緒に親子で参加した。
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(写真左の車いす青年が稔さん。その右が筆者。さらに右が寿江さん。)

 だが、1982年、高等部卒業に際して、その年に開設された県立リハビリテーションセンターが、新卒の脳性まひ者等の入所による訓練プログラムをスタートさせるにあたり、わらじの会の障害者仲間が地域で始めていた自立に向かってはばたく家準備会の活動への誘いを蹴って、稔さんを入所させた。母も本人も、「しゃべれるようになる」、「歩けるようになる」という、当時の所長の言葉を真に受けていたようだ。

 しかし、もちろん、そんなことはありようもなく、稔さんは、県リハビリテーションセンターで半年間余りの「訓練」を終えて、自宅に戻ってきた。しばらくは家にいた。しかし、稔さんは、やはり街に出て、世界を広げたかった。そして、あらためて、はばたく家準備会に参加することを望んだ。これまでの経過の中で、筆者は、母・寿江さんとはよく論争した。リハセン入所当時は、断絶状態だった。しかし、寿江さんは、「親と子はちがう」と言い、息子を囲い込もうとしつつも、その囲いを破って出てゆく息子を誇りに感じるところもあった。それは、家庭で一緒にいる中で育まれたあい矛盾する関係だった。だから、筆者と寿江さんは、けんか友達になった。(冒頭の写真は、当時の藤崎宅。寿江さんと稔さん)

 ところで、はばたく家準備会は、1981年の当初から2年間、何の公的助成もなく、谷中耳鼻科の職員の筆者とあんこの二人が、今で言う社会貢献活動として週3日位介助者として派遣される形で、活動を支えていた。当初の活動の場は、武里団地内の公園の中にある公民館だった。数年後、やっと越谷市が独自の助成制度を作り、同準備会は新たに介助者を二人雇うことができた。そして、谷中耳鼻科の向かいの空き地に、「自立に向かってはばたく家準備会の店・パタパタ」をオープンし、週5日営業を始めた。
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 そこへ藤崎さんが参加することになった。当初は筆者が送迎をしていたが、介助者不足もあり、県リハで訓練してきた電動車いすで自力で来れないかということになった。
試してみると、県リハのフラットな建物内だけの訓練では、傾斜や段差のある道路ではまったく使い物にならないことが判明した。そこで、まず公園内で練習を繰り返した。そして、いよいよ、筆者が付いて、自宅から活動の行われる公民館までのコースを電動車いすで通う練習を開始した。
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 なるべく車の少ない裏道を通るようにしたが、県道も一部通らざるを得ない。トラックがひんぱんに通る県道を、藤崎さんは蛇行しながら進んでゆく。その後ろに渋滞ができる。筆者がそばに付いていると、トラックの運転手さんにどやされる。どやされれば、電動車いすを停めて、手動に切り替えて押してゆかざるをえない。でも、これではいつまでたっても、練習にならない。
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 しかたないから、距離を置いて、他人のふりをして付いて行くことにした。危ないと思っても、すぐ電動車いすの所に行けない。胃が締め付けられる思いで、距離を保って歩いた。
 アメリカの自立生活運動の言葉で、「危険を賭ける権利」というのがある。この言葉を知ったとき、少なからず共感した。だが、「危険を賭ける権利」に、介助者としてどうつきあったらいいのか。
 アメリカでは、障害者が雇用主でありその命令に従うということで、クリアーできるのかもしれない。介助者を雇って、障害者本人が「危険を賭ける権利」を闘いとって、街を変えてゆく。しかし、日本では、雇用の権利義務関係や「危険を賭ける権利」では、いまひとつしっくりこない感じが残る。かって青い芝が主張した「介助者手足論」や「生きざまをさらす」という考えは、そうした日本的状況に向き合う中で出てきたものだと思う。
 とはいえ、自分はそんな割り切り方はできない。迷いに迷いながら、藤崎くんのそばに行けば、不安だし、手を出さざるを得ないから、10メーター以上離れて付いて行ったのだ。このことに関しては、後でまた考えてみる。
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