共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す

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zoom RSS 共に働くネットワークの源流を探る旅―八王子ワークセンター訪問T

<<   作成日時 : 2010/09/06 11:03   >>

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7月26日、筆者が事務局長を務めるNPO法人障害者の職場参加をすすめる会では、車3台を連ね、19人で八王子へ見学と交流のデイツアーを行った(上の写真は、ワークセンターが市から委託を受けて経営するペットボトルリサイクル工場「りボーン」での交流)。これは同法人が行う「本人・住民参加の障害者就労支援交流事業」の一環。これに先立って、7月4日に開いた同法人の総会記念シンポジウムでは、八王子ワークセンターの代表・土居幸仁さんにシンポジストとして来ていただき、ワークセンターの成り立ちや事業について、お話しいただいた。

訪問当日の詳細な報告は、NPO法人の職場参加ニュースNO.18に掲載するので、そちらに譲る。一言でいえば、八王子市内の障害者団体・施設が70団体・施設総結集し、市と協働して、多様な事業体を運営していることに圧倒されたし、その割にこうした実績がこれまで知られていなかった(筆者の周辺だけかもしれないが)ことにややびっくりした。八王子で見聞した事業のうち、都の補助金を受けて実施している市役所内のワークシェアリング事業については、つい先日の総合県交渉(埼玉障害者市民ネットワーク)でも、とりあげさせてもらった。

八王子の取り組みが、他地域にはあまり伝わって来なかった背景のひとつとしては、現場で活動する人々が、個々の所属団体としては別だが、ワークセンターというネットワークとしては、他地域との相互交流や連携にそれほど重きを置いていなかったのかもなあと思ったりする。また、初期の開拓者たちから次の世代にバトンタッチされる過程で、徐々に歴史的記憶が薄れてゆくということもあったのかもしれない。

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本人・住民参加の障害者就労支援交流事業」は、個々の団体・機関よりも、地域ネットワークに主眼を置いてみようということである。思いがけず、その好例としての八王子に出会ったわけだが、だからこその疑問がふつふつと湧いてきた。自分にできる範囲で、この疑問に相対してみようと思う。

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まず代表の土居さん(上の写真)だが、かって学生の頃、八王子生活文化学校にボランティアとして関わった。卒業後、そこから生まれた八王子生活館の職員になり、現在も同生活館など4施設を運営するNPO法人CES職員である。ワークセンターでは、代表だが無給なのだ。…と書いても、多くの読者にはなんのことかわからないだろう。

実はこの八王子生活文化学校とは、1979年の養護学校義務化阻止闘争の運動拠点のひとつだった八王子養護学校の教員と親たちが作った場だった。NPO法人CESのホームページ(http://www.yuimaru.net/)には次のように書かれている。

「現在の八王子生活館の前身の『八王子生活文化学校』は、1984年に「モノづくりを中心にさまざな人々が学び合う場」として、東京の西、八王子を東西に走る甲州街道沿いの小さな診療所の2階に開設されました。
養護学校を卒業した若者たちがメンバーになって、織物や味噌、クッキー作りなどを学び、それを基礎にして1987年には働く場としての『八王子生活館』が開設されました。仕事場、生活の場として、活動しています。」

 当時八王子養護学校の教員で、後にスワンベーカリー十条店を開設する小島靖子さんは、次のように語る。

 「私は、養護学校(時代)が長かった。でも、私は養護学校という形が良いというようにはずっと思っていなかったんですね。こうやって、養護学校みたいな形で子どもたちが分けられてしまうことで、障害を持っている人が生きにくくなってしまった。これは間違っているな、と。もうそれこそ、昭和40年代後半ぐらいからそう思っていて、養護学校の義務化の問題だったわけで。そうではなくて、やっぱり障害をもった人達が地域の中で当たり前に生きるためには、養護学校みたいな形は違う、と。

障害者が集められてしまっているということ。これは違う、と。だから、やっぱりどんな形でも障害者は自分の生まれ育った地域で自分の近所の子どもたちと一緒に学校に行けるようにしていかないといけないと。そして、「障害を持った人たちを含めてやっぱり社会なんだ」ということが、教育についても土台を作るところからはじめなければというように、というように思っていたので、ずっとそういう運動もやってきたし、今もなおそう思っているということは・・・あります。

 …『八王子養護学校の思想と実践―どの子も一緒の教育』(編:小島靖子/1984年/明治図書出版 )なんていうも本もご存知だと思うし、『歩きはじめの算数 −ちえ遅れの子らの授業から』(編:遠山啓/1992年/国土社)なんかも、私が書いたんです。

『ものづくりとヒロシマの授業 八王子養護学校の実践』(編著:小島靖/1985年/太郎次郎社エディタス)というのも、みんな私がやってきたんです。要するに、やっぱりこういう仲間が居て。何をカバーするかなんて、一緒に居ないとわからないじゃないですか。分けちゃって、ああいう子がいるんだって言われても・・・・。そういう所が問題だとは思ったけれども、養護学校があるからには、養護学校を肯定する人が学校にいるかぎりには、(養護学校)は無くならないと思った。養護学校の中から、課題をきちんと出していくことが必要だと思ったので、その必要を問い続けたけど(養護学校)は無くならない 。

…私は、八王子の養護学校の最後の頃、モノづくりで織物や色々とやっていたので、日本で一番小さな学校ということで、「生活文化学校」を八王子で作ったの。「生活文化学校」っていって、地域の人も入るし、それから障害者の人も入って、一緒に織物をしたりする学校で、日本で一番小さな学校ということで八王子市に作ったんですよ。

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それは、その八王子の男の子たちが、「僕たちの行く学校がない。」という声が出てきて、「織物を学校でしてきたので、もっと織物をしたい」という子が居たんですよ。ダウン症の子だったんだけど「織物をもっとしたい」と、よく出来る子で、その子はもちろん就職も出来る人だったんですよ。「それなら、その子たちの学校を作ればいいじゃん!」と言った仲間が居たんですよ。私は「ハッ!」と思って、「そうだよね、学校作ればいいんだよね!!」と言って、お母さんたちに保護者会で話したの。NHKの生放送で、その時の授業が放映されたんですけども、保護者会で話したら、お母さんたちが「そうだよね!」と(同意)してくれて。(上の写真は小島さん)

「学校」という名前で、作業所でも何もないわけだから、生活の文化を学んでいく学校、それは、障害者だけではなく、地域のお子様も一緒で良いんだということで、あるお医者さんの病院の2回を借りて、半年で「生活文化学校」を作った。「生活文化学校」を3・4年していく中で、障害者や普通の人が来るなかで、やっぱりこれを続けていくには・・・(どうしたらよいかと考えているときに)、八王子市から助成を取りませんか(という声があって)。ということで、その後は文化学校という部分と、生活館という彼らの生活と併設という形で、今もなお「生活文化学校」というところが残っている。」(株式会社テミル「テミルプロジェクト」ホームページよりhttp://temil-project.jp/inquiry/index.html

 ちなみに、八王子生活文化学校が間借りした「小さな診療所」とは、共に育ち・学ぶことを一貫して応援し行動してきた小児科医・山田真さんのところである。


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